第6章では、予期的後悔がどのように行われるのかを理論的に掘り下げます。
1.未来を“過去のように”感じる脳
コラム:神経科学的根拠 ― 未来を“過去のように”感じる脳
神経科学の研究によれば、人間の脳は「まだ起きていない未来の出来事」を想像するとき、それを過去の記憶を再構成するネットワークを使って処理します。
未来を鮮明に思い描くと、記憶を担う海馬、自己投影を司る内側前頭前野(mPFC)、そして痛みや自己評価に関わる前帯状皮質(ACC)や島皮質(insula)が同時に活動することがその根拠とされています。
(Coricelli et al., Science, 2005; De Brigard et al., Neuropsychologia, 2013)。
つまり、私たちの脳は未来の出来事を“すでに起こったこと”のように感じ取り、その情動反応を行動のエネルギーへと変換することができるのです。
私たちはこれまで、「後悔」は過去の出来事に対して生じる感情だと考えてきました。
しかし、人間の心―すなわち、将来を想像することができるシステム2(論理的思考)と、将来を想像することはできないにしても、その状況を感情としては受け取ることができるシステム1(直感型思考)の協働によって、私たちはまだ起きていない将来に対しても、後悔を先取りして感じることができるのです。
この将来の後悔をあらかじめ体験し、行動を修正する心の働きこそが、予期的後悔(anticipatory regret)です。
将来する後悔を予め知ることができるとしたら知りたいと思いますか?
2.未来に対する反実思考(仮想)の力
<1>「将来の自分」という基準点
予期的後悔とは、「将来の自分」という基準点を心の中に置き、その視点から今自分がなそうとしている選択を評価しようとする心理的プロセスです。
ここでいう「将来の自分」とは、単に現状のままに時間が経過した後の自分ではありません。それは、意識的に自分が理想として描くあるべき姿を実現している自己像です。
たとえば、

✅ 老後にお金の心配をせず、家族と穏やかに暮らしている自分
✅ 健康を維持しながら、前向きに自分らしい時間を過ごしている自分
などの姿です。
あなたの将来のあるべき自己像はどのようなイメージですか?
このように自分の人生の物語のシナリオにとって意味ある姿を”将来の基準点”として心に置くことで、私たちは現在採っている行動をその将来の自分の視点からチェックすることができますが、意識的にちゃんと自分の将来像を描くのは思うほど容易なことではありません。
<2>”if ~ then ……”「もし~をしなかったら……」という問いの力

そして、将来の自分の基準点を想定したうえで、私たちは自身にこう問いかけます。
「もし~をしなかったら……?」
この「もし~をしなかったら……?」という不作為の仮想こそが、予期的後悔を生み出す公式です。
「もし~をしなかったら……」という問いは多くの場合、現状と変わらない生活を送ることを意味します。そして、「もし~をしなかったら……」の生活の積み重ねは将来大きな違いを生じさせます。
将来の自分のあるべき姿を基準点とし、そこから見た今の自分の選択とその結果を反実思考(仮想)して照らし合わせることで、私たちは「将来、今の自分の選択を後悔しているかもしれない」という感情を今先取りすることができます。
後悔は好ましくない結果に対するものではなく、好ましくない結果を招いた過去にした自分の選択に対するものです。
<3>将来を仮想的に過去化する
この公式を通じて、私たち人間だけがまだ現実化していないにもかかわらず、将来を仮想して過去化することができます。
すなわち、まだ起きていない出来事を、あたかも“すでに起きたこと”として心の中で再生し、そのときの自分の感情を先に体験するのです。
これは一種の心理的シミュレーションであり、私たちは将来の感情をリハーサルしたかのように感じ取ることができます。
このとき働いているのは、システム2(論理的思考)による将来の構築と、システム1(直感的思考)による感情的評価の協働です。システム2(論理的思考)が選択した結果の将来の状態を描き、システム1(直感的思考)が将来における結果と基準点との乖離を観て感じる。
このブリッジ構造こそが、予期的後悔の核であり、理性が感情を動かし、感情が行動を修正する双方向のループです。
<4>感情を味方につける知性
予期的後悔は、ネガティブな感情ではありません。
それは、将来の痛みを仮想的に今に感じることで、今の選択をより良い方向へ導くための感情的ナビゲーション装置です。
人間は「知っている」だけでは動けません。
本を読んで、人から聞いて、セミナーを受けて「知って」も行動する人はごくわずかであるのはこのためです。
しかし、「感じた」瞬間に人は動き出します。
その感情の先取りを理性が導き出すのです。
それが、感情と理性をつなぐ知性、すなわち予期的後悔リテラシーです。
3.予期的後悔の5プロセス構造
予期的後悔はシステム1(直感的思考)とシステム2(論理的思考)が5つのステップを踏んで協働することで行うことができます。
下の図のイラストは第4章 予期的後悔 ― 将来の自分との会話のケースから取り出したものです。そのケースを観ていただくとよりこのプロセスをよく理解することができます。
(トリガーとなるファクターxについては第7章で取り上げます)
ステップ | 主体 | 内容 | 機能 |
| ① | システム2 | 将来の基準点を設定して、見える化する | あるべきの自分の姿を設定し、判断の拠り所をつくる |
| ② | システム2 | 将来の基準点と現在の採っている選択の結果の乖離を認識する。不作為の選択の結果に注意が必要 | 今の選択の結果がどの程度基準点(理想)からずれているかを評価する |
| ③ | システム2 | 将来の状態を仮想した上で、あたかも既に起きているかのように、現在採っている選択との乖離を見える化する | 「もし〜をしなかったら」とシミュレートし、システム1(直感的思考)が介入することができるようにシステム2(論理的思考)が段取りする |
| ④ | システム1&2 | 将来の後悔を先取りして感じ取り、今している選択について判断を下す | まだ起きていない痛みを“今ここ”で体験することのによってシステム1(直感的思考)が未来のことに関しても判断を行うことができる |
| ⑤ | システム1→2 | システム1(直感的思考の)決定により、選択に修正を加える | システム1(直観的思考)の判断の下に、システム2(論理的思考)が基準点をベースに選択の変更を行い行動変容へ転化する |
🔹「将来の自分」という基準点とは、あるべき自分の姿であり、評価の軸である。
🔹「もし~をしなかったら……」という不作為の仮想が作為の仮想に比較して強い後悔を生む。
🔹 将来を仮想的に過去化(経験した)することで、感情的にリハーサルをすることが可能になる。
🔹 予期的後悔は、システム1とシステム2をつなぐブリッジとして機能する。
次に、このブリッジ構造をより深く掘り下げ、「システム2が構築し、システム1が反応する」その協働が、どのようにして“感情を伴う意思決定”を生み出すのかを明らかにしていきます。
4..反実思考(仮想)を媒介とした予期的後悔 ― システム2が構築し、システム1が反応する
<1>プロセス
予期的後悔がシステム1(直感的思考)とシステム2(論理的思考)の協働によって生まれることを確認しました。
予期的後悔はシステム2(論理的思考)が構築した反実思考(仮想)を媒介として、判断を司るシステム1(直感的思考)の感情を起動させるプロセスです。
すなわち、
1️⃣ 論理が将来に対する反実思考(仮想)を生み
2️⃣ 将来に対する反実仮想が予期的後悔を生み、
3️⃣ その予期的後悔が今の感情を動かして、将来のためのより適切な選択を行う
この三層構造を意識的に働かせることこそが、予期的後悔リテラシーを身につけ、感情と理性を協働させて「今の選択」を変えていくための第一歩となります。
<2>過去と将来に共通する「反実思考(仮想)」という装置
私たちは「もしあのとき……していれば……」と過去を振り返ることがあります。
また、「もし今~をしなかったら、将来は……」と、まだ起きていない将来を想像することもあります。
この2つに共通しているのが、反実思考(仮想:counterfactual thinking)という心の装置です。反実思考とは、現実とは異なる可能性を仮に想像し、今の選択や出来事を、別の観点から検証し直すための思考過程です。(参照:第3章 反実思考(仮想)とは何か ― 「起きなかった現実」を想像する力)
ただし、過去に対する反実思考と、将来に対する反実思考では、その情報の流れの方向が全く異なります。この違いを理解することが、予期的後悔のメカニズムを理解する第一歩です。
<3>過去に対する反実思考(仮想) ― 感情が先に起動する「事後的プロセス」
過去に対する反実思考では、まずシステム1(直感型思考)が出来事と基準点のずれを感情として検知します。たとえば、「期待していた結果が得られなかった」「もっと上手くできたはずだ」と感じたとき、怒り・悲しみ・悔しさといった後悔の感情が発火します。
その後、システム2(論理的思考)がその感情を受け取り、「なぜそうなったのか」「次に同じ失敗を繰り返さないためにどうすべきか」と分析します。
(システム1が回避的行動をとってシステム2に情報を流さないことが少ないことは共有済みでしたね)
つまり、感情が先、思考が後。外界の出来事という刺激がまず感情を生み、それを理性が後から整理する。これが過去に対する反実思考の「事後的プロセス」です。
このプロセスの目的は、反省と学習。感情の痛みを通して現実を再評価し、次に備えるためのバネ(修正装置)として働きます。
<4>将来に対する反実思考(仮想) ― 思考が先に起動する「事前的プロセス」
一方、将来に対する反実思考では、状況がまったく異なります。
将来はまだ起きていないため、外界からの刺激がなく、システム1(感情)は単独では動き出せません。
そのため、まずシステム2(論理的思考)が将来の基準点と出来事を理性的に構築します。

たとえば、
✅ 「もし今、このまま健康診断を受けなかったら……将来、病気が見つかって後悔しているだろうか?」
✅ 「もし今、老後資金を準備しなかったら……将来、不安に苛まれていないだろうか?」
このように、システム2(論理的思考)は将来の出来事を頭の中に仮想的に作り出すことができます。
すると、将来に対する反実仮想をする能力のないシステム1(直感的思考)にシステム2(論理的思考)が仮想した将来が内的な刺激として伝わります。
その結果、選択の決定権を持つシステム1(直感的思考)にも感情としての予期的後悔が喚起されるのです。
「将来の自分は、この選択を後悔することだろう……」と
この“将来の痛み”の感覚こそが、予期的後悔です。
すなわち、将来に対する反実思考(仮想)は、理性が先に将来に対する仮想をつくり、感情が後から反応するという事前的プロセスです。
過去に対する反実仮想とは正反対の流れを持っています。
<5>将来の反実思考(仮想)が感情を起動する
ここでシステム2(論理的思考)が行っているのは、頭をよぎる様々なことに関する夢想ではありません。システム2は、具体的にフレーム(領域)を定めた将来の出来事について反実思考(仮想)として構築します。
つまり、
「~について、もしこのまま何もしなかったらどうなるか」
「~について、もしこの選択を誤ったら、どんな将来が訪れるか」
といった「~について」具体的な問題をクローズアップした上で、その問題の“将来のもしも”を想像し、起こりうる現実を頭の中に描くのです。
この反実思考は、2つのシステムの間に感情の電流を走らせます。
システム1(直感的思考)は、システム2(論理的思考)が描いた仮想シナリオを受け取り、将来の自分が感じるであろう後悔を、すでに感じたように今この瞬間の感情として体験するのです。
予期的後悔とは、将来に対する反実思考(仮想)を通じて、システム2(論理的思考)がシステム1(直感的思考)を起動するためのスイッチなのです。
<6>感情の将来シミュレーション
こうして、私たちは現実にはまだ起きていない出来事に対して、まるでそれがすでに起きたかのように感情を体験します。これを心理学では感情の将来シミュレーション(emotional foresight)と呼びます。

たとえば、
😫 「老後の生活費を準備しないまま年金生活に入った自分……」
😫 「検診を受けずに病気を悪化させてしまった自分……」
そんな将来のあるべき基準点と乖離したもしもを反実的に思い描いた瞬間、私たちは胸の奥に強い感情的な痛みを感じます。
この感情は、現実の出来事に対する反応ではなく、将来の仮想現実に対する予行反応です。
システム2(論理的思考)が描いた反実的将来像を、システム1(直感的思考)があたかも実際に経験したこととして受け取ってしまうのです。
そのとき、システム1(直感的思考)ならびにシステム2(論理的思考)は理屈ではなく、身体感覚として「今の選択のままではいけない」と悟ります。
それが、行動を変える最初の衝動となります。
<7>過去に対する反実仮想との対比 ― 反実思考のベクトル
今まで説明したように、過去に対する反実思考と将来に対する反実思考は、同じ「もしも」を扱いながら、その向きがまったく異なります。

左に過去にたいする後悔、右に将来に対する後悔のプロセスを対比してみます。
過去に対する後悔はシステム1(直感的思考)が起動して、システム2(論理的思考)が後続するのに対して、将来に対する後悔がシステム2(論理的思考)が起動してその後にシステム1(直感的思考)が後続して協働します。
この違いが何から生じるかが問題です。
その違いの原因は後悔を引き起こす事実(過去に生じたx)が目の前にすでに生じているか、(将来に起こりうるx)まだ生じていないのかなのです。
すでに生じている現実に対してシステム1(直感的思考)は即座に反応しますが、まだ起きていない現実にシステム1(直感的思考)は反応することができません。従って将来に対する後悔については、システム2(論理的思考)が対応するしかないのです。
将来に対する反実思考は、過去に対する学習機能を予防機能に転化させます。
後悔をしてから学ぶのではなく、後悔をする前に学ぶのです。
このとき、感情は将来への“アラーム(警報)”として働き、システム2(論理的思考)が生み出した仮想が、システム1(直感的思考)の行動動機へと変わります。
理性が描いた「もしも」が、感情の世界を動かし、感情が理性に「今動け」と信号を返す。この循環が起動するとき、将来の後悔は今行動するエネルギーに変わります。
5. 予期的後悔が押す「行動のスイッチ」
多くの人が「やるべきだと分かっているのに動けない」と感じるのは、システム2(論理的思考)だけでは、システム1(直感的思考)に行動を起こさせるほどの感情的リアリティを与えることができないからです。
予期的後悔は、その感情的リアリティを後悔する前に予め体験させてくれます。知るのではなく、将来の痛みをわずかに感じ取ることで、目の前のことを裁くのに忙しいシステム1(直感的思考)が「これは自分ごとだ」と認識し、行動のスイッチが入るのです。
つまり、予期的後悔とは、反実思考(仮想)を介して、理性と感情が共同で意思決定をつくり上げるシステムなのです。
6. しかし、問題はどうやってシステム2(論理的思考)を起動するか?
ここで一つの本質的な問いが生まれます。
そもそも、私たちはなぜ未来について考えないのでしょうか。
その理由は明確です。
過去や現在においては、外界の出来事が刺激となってシステム1(直感的思考)を動かします。
しかし未来には、まだ何も起きていない。
人間はあるものは認識しますが、ないものは認識しません
だから、将来に対してはシステム1(直感的思考)は沈黙したままで、システム2(論理的思考)も起動しないまま“思考の空白”が生まれてしまうのはごく当然なのです。
将来を考えるという行為は、自動的には起きません。
それは外部から何らかの“きっかけ”を与えなければ起動しないのです。
未来の痛みが今ここの感情として立ち上がった瞬間、システム1(直感的思考)は「動かねば!」と判断します。しかし、その痛みを引き起こす条件”x”がなければ、システム2(論理的思考)も動きようがないのです。
その”きっかけ”がファクターxです。
ファクターxなしには予期的後悔はあり得ず、行動の変容もありません。
ファクターxについては第7章にて扱います。