本稿は「なぜ、わかりきったリスクに備えないのか ― システム1とダチョウスタイルの心理学」の続編です。まだ読んでいない人は先にそちらを読んでこちらにお戻りください。
なぜ、このような誰にでもわかりきった大きなリスクに備えておかないのだろうか?
✅ 早期発見のために健康診断を受けたほうがいい
✅ 健康のために定期的に運動をした方がいい
✅ 老後資金を早めに積み立てておいたほうがいい
✅ 家族は仲良くしておいた方がよい
これらは誰でも知っている自分と家族にとって必要であり、重要なリスクへの備えです。しかし、私たちはその重要性を理解していても、実際に行動に移せないまま時間が過ぎていきます。
本稿は、
なぜ、これらの誰もがわかりきったリスクに備えないのか?
という理由を理解した上で、それを解決する予期的後悔リテラシーを提案するシリーズの第2弾です。
私たちは感情に流されず、論理的に判断している、あるいはすべきだと考えがちです。
しかし、実際には、システム 2(論理的思考)だけでこのような判断をすることはできません。
すなわち、それらに関連する本を読んだり、セミナーを聞いたからといって、行動することは滅多にないということです。
一方、もうひとつのシステム 1(直感的思考)は、今この瞬間に生じていることに対応するだけで手一杯であり、未来のリスクや後悔を想像する力を持ちません。
そこで本稿では、システム1(直感的思考)とシステム2(論理的思考)の性格と力関係を明らかにすることによって、後悔しない意思決定を行うベースを築いていただきます。
ひとりの人間にふたつの心(双頭の人間モデル)
近年の認知神経科学と認知心理学の両分野の進展で明らかになったのは、脳の働きがある程度機能を異にし、長所と短所を異にする2つの認知タイプが併存しているということです。

キース・スタノヴィッチはそれをシステム1とシステム2と呼びました。
システム1(直感的思考):速く、自動的で、感情的。努力を要せず、直感的に反応する。
システム2(論理的思考):遅く、論理的で、熟慮的。論理的に考え、判断する。
両者の特徴の対比
| 項目 | システム1(直感型思考) | システム2(論理型思考) |
| 思考の特徴 | 自動的・瞬発的・感情的に判断 | 意識的・論理的・分析的に判断 |
| 処理スピード | 非常に速い(瞬時の判断) | 遅い(時間と労力がかかる) |
| 主な働き | 危険察知・パターン認識・習慣行動 | 計画・分析・問題解決・批判的思考 |
| 強み | ・迅速な対応(危険回避・経験判断) ・直感的な洞察や創造的発想 ・日常的判断の省エネ化 | ・論理的で一貫性のある判断 ・長期的視野での意思決定 ・複雑な問題の分解 ・分析 |
| 弱み | ・バイアスや錯覚に陥りやすい ・感情や先入観に支配される ・新しい状況に弱い | ・疲労や時間制約に弱い ・過剰分析による決断遅延(分析麻痺) ・感情的モチベーションを軽視しがち |
| 得意な領域 | ・危険回避 ・社会的判断 ・習慣的意思決定 | ・計画立案 ・数理的判断 ・道徳的 ・抽象的推論 |
| 主なエラー傾向 | ヒューリスティック(思い込み)やステレオタイプ | ・過信 ・過剰合理化 ・現実との乖離 |
| 関与する感情 | 恐怖・快楽・不安などの即時的感情 | 道徳感・責任感・将来への展望 |
| 疲労への影響 | 疲労しても比較的維持される(自動反応) | 疲労すると機能が著しく低下する(熟慮が面倒になる) |
| 老後リスクの関連 | 不安・死・お金などの「見たくない話題」を避ける傾向(回避行動) | 将来をシミュレートして後悔を防ぐ力(予期的後悔リテラシーの中核) |
【ケース】健康診断の結果を見ることができない
しばらく前から胃腸の調子がよくないB男さんに健康診断の結果が届きました。
封筒を手に取った瞬間、胸のあたりがザワつきます。

「何か悪い結果が出ていたらどうしよう」
そんな不安が頭をよぎり、一度手にとった封筒を机の上にそっと置いてしまいます。
開ければすぐに分かるのに、手が動こうとしません。
このとき働いているのがシステム1(直感的思考)です。人は危険や不安を感じた瞬間に、「見ない」「考えない」という回避反応をとります。それは、後悔や恐怖を感じる前に心を守る“感情的防衛”の仕組みです。
一方、システム2(論理的思考)は、理性的に「事実を知らなければ対策できない」と理解しています。
しかし、システム1の後悔回避の信号が強く出ているうちは、システム2は手を出すことができず、論理的思考のスイッチは入りません。
結局、封筒はしばらく放置されたままになります。だがそれは「何もしない」という選択ではなく後悔を避けるための消極的な選択でもあるのです
皮肉なことに、「今結果を知って後悔したくない」という感情が、「未来の後悔を防ぐチャンス」そのものを奪ってしまいました。
象(システム1)と象使い(システム2)
システム1は大きな像、システム2は小さな象使いに例えられるように、どちらが強力かと言えば、圧倒的にシステム1が多くの意思決定を支配しているのです。

私たちは自分が理性(システム 2)で考えていると思っていますが、実際にはシステム1が先に感情的判断を下し、System 2は野球の解説者のように後知恵でその説明を後からつけているだけです。
そして、私たちの脳は「考えてから感じる」のではなく、「感じてから考える」ようにできています。情報はシステム1が先にキャッチして、システム2に情報を回すか回さないかはシステム1次第です。
順番が私たちの思い込みとは逆なのです。この構造こそが「わかっているのに動かない」理由の根本にあります。
様々な研究者がふたつの心を次のような名称を付けて注目しています。
| 命名者 | 直感的思考 | 論理的思考 |
| 一般的 | 感情 | 理性 |
| キース・スタノヴィッチ | システム1 | システム2 |
| ティモシー・ウィルソン | 無意識 | 意識 |
| ベイザーマン | したい自己 | すべき自己 |
| ウォルター・ミッシェル | ホットシステム | クールシステム |
| ジョナサン・ハイト | 直観システム | 推論システム |
システム1(直感的思考)がシステム2(論理的思考)と情報を共有しない理由 ― システム1の防衛反応
システム 1(直感的思考)は、外界からの情報に対して「快」か「不快」かを瞬時に判断します。そして不快な情報、つまり自分の不安や恐怖を刺激する情報に対しては、それを避けようとする防衛反応を起こします。
心理学ではこれを回避的対処(avoidance coping)と呼びます。
私たちはクマとであったときに危険を感じて逃げ出すように、不安な話題にも無意識に逃げるのです。

たとえば、
🔹「老後資金が足りないかもしれない」という言葉を聞いた瞬間
🔹 大腸がん検診で便潜血が認められたため、再検診の案内を受け取ったとき
🔹 保険代理店から地震保険をすすめられたとき
頭の中では“将来への不安”が浮かび上がり、扁桃体がその不快感を検知します。
その結果、心拍数が上がり、前頭前野(理性的な判断を司る部位)の活動が一時的に抑制されることが知られています。
この状態になると、私たちはシステム2(論理的思考)を止め、「今は考えたくない」と感じてしまうのです。
システム1(直感的思考)が「今は考えたくない」と思ったその瞬間、行動は止まります。
つまり、情報は頭に届いていても、心が考えることを拒絶している状態になります。
これは、特に老後の4大リスク ①お金 ②健康 ③孤独 ④生き甲斐などのリスクの情報に接しながら、多くの人の行動に結びつかない最大の理由です。
システム 1(直感的思考)が情報を止める多層的な理由
システム 1(直感的思考)が防衛的に反応する原因は、恐怖や不安の回避だけではありません。さらに根深い構造があります。
それは人間の脳が、考えること自体を避けたがるという省エネ構造をもっているからです。ダニエル・カーネマンは、人間を「認知的倹約家(cognitive miser)」と呼びました。
人は、思考エネルギーを節約するため、無意識のうちに“楽な判断”を選びます。その代表的な現象が、次の三つです。
1️⃣ 「知らないこと」を避ける ― 未知回避バイアス
未知の概念や制度に出会い、それを理解しようとするには脳に大きなエネルギーを要します。システム1はこの負荷を嫌い、「わからないもの、経験したことのないこと」=「自分には関係ない」と結論づけてしまいがちです。
(例)
・新NISA?銀行預金で良いわよ……
・パソコン?スマホじゃだめなの?
・遺言?まだ早いよ
2️⃣「慣れていないこと」を避ける ― 習慣の惰性
私たちの行動のほとんどは意識的にではなく、無意識に習慣的に行われているといわれます。あなたはいかがでしょうか?
人間の脳は、慣れた行動を繰り返すことを“安全”であると感じます。慣れた行動は予測可能で、感情的な負担が少ないからです。
一方で、慣れていない選択は不確実性が伴い、結果を予測できませんから、脳の情動中枢である扁桃体は、未知や変化を「危険信号」として検知します。その瞬間、体は軽いストレス反応を起こし、前頭前野による理性的な判断を一時的に抑えてしまうのです。これが「慣れていないことを避ける」仕組みの根源です。
さらに現代人は、日常の大半をルーティン行動と情報処理に費やしています。思考や意思決定に使える認知資源(mental resource)は限られており、忙しい日常では新しい選択を検討する余地は限られています+。
そのため、脳は「今は考えなくていい」「後でやればいい」と判断し、システム 1(直観的思考)がシステム2(熟慮的思考)への“橋渡し”を止めてしまうのです。
(例)
・年に一度の確定申告の作業
・パソコンの入れ換え
3️⃣「忙しさ」が止める ― 認知資源の欠乏
忙しい、疲れている、余裕がない……
このような状態では、システム2(論理的思考)は起動しません。
システム1はシステム2が「今は考える余裕がない」と判断し、心全体のリソースから思考をシャットダウンします。
これは怠惰ではなく、脳の防衛反応です。
忙しさやストレスで脳が疲労すると、システム2(論理的思考)は働きにくくなります。そのため、システム 1(直感的思考)が自動的に「今は無理」「あとで考えよう」と判断するのです。
(例)
・お客様が忙しそうな時に新規契約の提案をすべきでない
・月末に訪問するのはやめておこう
まとめ:思考停止の三重構造
| 要因 | 反応のタイプ | 典型的な思考 | 結果 |
| 恐怖・不安 | 感情防衛 | 「考えたくない」 | 思考回避 |
| 未知・非自動化 | 認知負荷回避 | 「わからない」「面倒」 | 放置 |
| 忙しさ | 資源欠乏 | 「今は無理」「あとで」 | 先送り |
この三重構造が、「動かない方が安心だ」という錯覚を生み出します。
現状維持バイアスは、システム 1(直感的思考)がもたらす自動的安心システムの産物なのです。
システム2(論理的思考)が未来を描き、システム 1(直感的思考)がそれを感じる ― 予期的後悔リテラシーの起動メカニズム
では、どうすればシステム2(論理的思考)を目覚めさせることができるのでしょうか。
その鍵は、システム 1(直感的思考)の浮揚にあります。
決定権はシステム2(論理的思考)ではなく、システム1(直感的思考)にあります。システム2だけが単独で考えて決定することはできません。
そこで、将来に関する重大なことを判断する能力を持たないシステム1(直感的思考)の感情をシステム2(論理的思考)が浮揚させることができるか否かが行動の分かれ目となります。
つまり、理性を働かせるためには、まず理性が感情を動かすループの力が必要がなのです。

1️⃣ ステップ1:システム2(論理的思考)が未来を構想する(企画段階)
反実仮想を通じて「もし~なら」を反実仮想して、将来象をわかりやすく描き、いくつかのシナリオを用意して、それをする能力を持たないシステム 1(直感的思考)に提示する。
2️⃣ ステップ2:システム 1(直感的思考)が感情的評価を下す(決裁段階)
システム2(論理的思考)の提案を「快/不快」「安全/危険」「好き/嫌い」で瞬時にジャッジしますが、システム1だけでは想像することができないレベルまで感情的に判断することができる情報をシステム2から得ることによってより自分にとって好ましい選択をする可能性が高まります。
3️⃣ ステップ3:システム2(論理的思考)が感情を踏まえて再調整する(再企画段階)
システム 1(直感的思考)がシステム2の提案を受けてその問題の解決に向けて検討する必要性を感じた場合に、システム2つの協働がスタートします。
ある瞬間、システム1(直感的思考)が真にシステム2(論理的思考)と一緒に検討する必要があると感じた場合には、システム2(論理的思考)に情報を送り、システム2(論理的思考)が再び活性化し、理性的な判断を取り戻します。
システム 1(直感的思考)とシステム2(論理的思考)の再接続 ― 備えることができる余裕のあるタイミング
ここで重要なのは、システム2(論理的思考)が自らを起動できるのはリスクに直面する以前のタイミングだけであるということです。
リスクが目前に迫ると、システム 1(直感的思考)が恐怖やストレスで防衛的に支配してしまい、システム2(論理的思考)も機能を停止しまいます。その時にはもはやシステム2が冷静で論理的な提案をすることはできません。
だからこそ、システム2(論理的思考)が働けるのはまだ安全なとき、つまり、リスクが起きる前が未来を考えられる唯一の時間なのです。
この“予期の段階”でシステム2(論理的思考)が未来を想像し、そのイメージをシステム 1(直感的思考)に感情として伝える。
このシステム2→システム1→システム2→システム1の往復運動が、将来のリスクに備えることができる心理プロセスです。
感情を動かす力 ― 反実仮想の登場
システム2(論理的思考)がシステム 1(直感的思考)を呼び覚ますためには、
「もしも○○だったら」という反実仮想(counterfactual thinking)が必要です。
なぜならば、システム1は直感・感情で判断をするためです。いくら理屈を捏ねてもシステム1は動きません。
反実仮想は、起こっていない出来事を想像し、その中で“未来の感情”を今、先に感じる(理解するではない)思考です。人は、未来の感情を今過去のように経験することで、はじめて今の行動を変えることができます。
この「未来の感情を今、感じる力」こそが、システム 1(直感的思考)とシステム2(論理的思考)をつなぐ橋なのです。
まとめと第3章予告
システム1(直感型思考)とシステム2(論理的思考)は、どちらかが優れているわけでも、常に対立しているわけでもありません。
多くの場合、私たちはシステム1の自動運転によって日常を過ごしています。経験に基づく判断では、システム1は極めて有能です。
しかし、問題はまだ経験していない未来の判断です。未知の領域に直面したとき、システム1は「考えたくない」「今のままでいたい」と回避を選びがちです。一方、システム2は「このままでいいのか」「もっと良い未来にできないか」と問い直そうとします。
このとき現状が無意識の基準点(reference point)からずれていると、心の中に“違和感”や“落ち着かなさ”が生じます。それはシステム1からの感情的シグナルです。
この感情シグナルを受け取ったシステム2は、未来を見据えた仮想的シミュレーションを行います。「もし今の行動を続けたら」「もし別の選択をしたら」という未来のシナリオを比較し、
どの選択が後悔を生み、どの選択が望ましい結果を導くかを思考する。
このプロセスこそが、反実思考(仮想)であり、システム2が未来を予測し、計画を立てるために欠かせない設計的思考なのです。
そして、その想像結果がシステム1にフィードバックされることで、感情が動き、行動のエネルギーが生まれます。つまり、反実思考はシステム2の計画装置であり、システム1の動機装置でもあるのです。
第3章では、このシステム2による反実思考(仮想)
すなわち「もしも」という想像がどのように生まれ、人間の学習や意思決定を支えているのかを詳しく見ていきましょう。
第3章へつづく ☞ 第3章 反実思考(仮想)とは何か ― 「起きなかった現実」を想像する力









