行動心理学

”WYSIATI” ー 乗客はなぜ、沈むタイタニックに乗船したのか?

1912年のイギリス サウサンプトン港。

巨大な船体がゆっくりと朝日に照らされていた。

人々は誇らしげに乗船する。
家族は手を振り、
紳士は帽子を取り、
誰もが「未来」を見ていた。

しかし、誰も救命ボートの数を気にしてはいなかった。

全長269メートル、総トン数約46,000トン。

当時、世界最大の客船タイタニック。

船底には二重底構造が採用され、16の防水区画と電動式防水扉も備えられていた。

新聞はこう表現しました。

”Practically Unsinkable(実質的に不沈)”

なぜ、この沈むことになるタイタニックに人々は安心して乗り込んだのか。

そして、なぜ1,500人以上が命を落とす結果になったのか。

多くの乗員、乗客が命を落とした原因は氷山との衝突だけではありません。

氷山にぶつかる前に、乗客、乗員の意思決定の構造に問題があったのです。
今私たちの周囲にもタイタニックに乗船するか否かの選択が溢れています。

1. WYSIATIとは何か

行動経済学者ダニエル・カーネマンは著書『Thinking, Fast and Slow(邦題:ファスト&スロー)』(2011)で、人間の判断の根本的特性をこう説明しています。

”What You See Is All There Is!”

人は、手元にある情報だけで物語を作る。

これが WYSIATI です。

重要なのは、人は判断に必要な情報が不足していると感じないこと。

不足している情報を探索せず、見えている材料だけで整合的な説明を構築してしまいます。

カーネマンは、人間が不完全な情報からでも「整った物語」を作ってしまう傾向があるとも述べています。(一貫性の錯覚(illusion of coherence)

材料が少なくても、物語が一貫していると、私たちは安心する。

そして、その安心感が、それ以上の確認を止めてしまうのです。

2. WYSIATIを構成するヒューリスティクス

WYSIATIは単独のバイアスでなく、複数の認知メカニズムの統合結果です。ここではWYSIATIに結びつく代表的な5つを挙げます。

<1>代表性ヒューリスティック(Tversky & Kahneman, 1974)

🎯 代表性ヒューリスティック:本来参照すべき「統計的な発生率(基礎率)」を無視して、もっともらしさで判断してしまう傾向

✅ 巨大

✅ 最新鋭

✅ 豪華

「安全な船」の典型イメージに当てはまる。その“らしさ”が、安全性の証拠になります。代表性ヒューリスティックとは、本来参照すべき「統計的な発生率(基礎率)」を無視して、もっともらしさで判断してしまう傾向です。(base rate neglect)

氷山との衝突の確率の検討も、救命ボート定員の確認も、「らしさ」によって省略されていたのです。

<2>ハロー効果

🎯 ハロー効果:一部の優れた特徴が全体評価に波及する現象。

✅ 豪華な内装

✅ 企業の威信

✅ 技術革新

これらの“光”が、安全設計全体の信頼へと拡張されます。本来無関係な属性が判断を歪めます。

<3>アンカリング

🎯 アンカリング:最初に提示された情報がその後の判断を拘束します。

「不沈船」:この言葉が基準として設定(アンカリング)されると、氷山の警報も、救命ボートの数も、一度設定された基準から大きく逸脱しなくなります。

アンカーは、思考の重りになります。

<4>利用可能性ヒューリスティック

🎯 利用可能性ヒューリスティク:人は思い出しやすい事例を発生確率が高いと感じます。

1️⃣ 当時、巨大客船が沈没する映像は生々しく共有されていなかった。

2️⃣ 同様に、全員分の救命ボートがない事故を具体的に想像することができなかった。

思い浮かばないリスクは、意思決定に影響しません。

この現象は、9.11後の研究でも確認されています。(ゲルト・ギーゲレンツァー, 2004)

 

これはタイタニックだけの話ではありません。
2001年9月11日以降、米国では飛行機事故の恐怖が増幅した結果、飛行機の利用が減少し、自動車事故死が1,600人増加したと推計されています。

人は思いだしやすい恐怖を過大評価するのです。

”9.11”後の米国民の行動変容と交通事故死

・米国では、2001年9月11日の同時多発テロ後に航空機利用が減少し、自動車利用が増加した。

・その結果、通常よりも 交通事故による死亡者数が増加したことが複数のデータ分析で示されています。

・ゲルト・ギーゲレンツァーの分析では、テロ後数か月で 約353件の交通事故死の増加が推定されています(被害がなければ飛行した場合の死亡者数より多い数)と報告されています。  

・さらに後続分析では、12か月で約1,600件超の追加の交通死亡が発生した可能性が示されました。これは当時の航空機事故で亡くなった人数を上回っています。  

📌 なぜこれが利用可能性ヒューリスティックの例なのか?

・同時多発テロは「低確率だが非常に大きな被害」というdread risk(恐怖リスク)として認知されました。

・人々はその恐怖イメージを強烈に記憶し、飛行機を避けて長距離移動を車に切り替えました。

・実際には自動車による移動は飛行機よりもずっとリスクが高い(年間の自動車死亡者数は航空機より圧倒的に多い)が、航空機という恐怖のイメージが判断を歪めたのです。  

3.そして結果として生じるもの ― WYSIATI

✅ 代表性

✅ ハロー効果

✅ アンカリング

✅ 利用可能性

これらが同時に働くと、「安全な船」という一貫した物語が創り上げられます。

その物語の外にある情報は、問題として立ち上がらない。

救命ボートが足りない問題は厳然と存在していましたが、乗客に乗客数に対して十分かどうかを確認する問いは生まれなかったのです。

見えているものだけで世界が説明できてしまったたからです。

これがWYSIATI

ヒューリスティックは原因、WYSIATIは、その帰結なのです。

4.現状維持バイアス

🎯 現状維持バイアス:人は、今の状態を基準にし、変更を過大評価し、何もしないことを選びやすいという傾向です。

選択肢に「現状」が含まれると、それが過剰に選ばれます。(Samuelson &Zeckhauser 1988年)

人は変化のコストを過大評価する。

そして現状のリスクを過小評価する。

現状維持バイアスは、「変えないことを選ぶ」力である。

サウサンプトン港。1912年4月

朝の光の中、巨大な船体が静かに横たわっている。

全長269メートル。

当時世界最大級の客船。

黒い船体はどっしりと水に浮かび、4本の煙突からは白い煙がゆっくりと立ち上る。

甲板では乗客が写真を撮り、家族が手を振り、楽団の音が流れている。

何も起きていない。

船は、浮いている。沈んでいない。

ここに、最も強力なヒューリスティックが働きます。

現状維持バイアス。

人は、現在の状態が将来も続くと無意識に仮定する。

浮いている船は、浮き続ける。

問題が起きていないなら、これからも起きない。

「今」をそのまま未来に延長してしまう。

乗客の目に映っていたのは、

✅  巨大な船体

✅ 安定した停泊

✅ 安心した群衆

✅ 整然とした乗船風景

見えていたのは「安全な現在」

見えていなかったのは、

🔥 氷山衝突の可能性

🔥 乗客数に対する救命ボートの不足

しかしそれらは、未来に属する情報であり、今、起きていない。

だから、検討されない。

現状維持バイアスは、「乗らない」という選択を不自然に感じさせる。

周囲は乗る。港は祝祭のように賑わっている。新聞は技術力を称賛している。

この空気の中で、「私は乗らない」と言うには、現状を壊す勇気がいる。

人は変化を避ける。

だから乗る。

ヒューリスティクスの整理

ヒューリスティクスの種類

何が起きるか

代表性

「不沈らしい」から安全だと思う

利用可能性

沈没事例が思い出せないから安全だと思う

アンカリング

「不沈」という言葉が基準になる

ハロー効果

豪華=安全と錯覚する

現状維持

今浮いている=今後も浮くと思う

 

5.ここでWYSIATIと現状維持バイアスが接続する。

二つの死因

タイタニックの悲劇は二段構造でした。

1️⃣ 氷山(外部リスク)

2️⃣ 救命ボート不足(内部備え不足)

最大約3,300人が乗れる船に対し、救命ボート定員は約1,178人。

沈没まで約2時間40分あった。

時間はあったのです。救命ボートさえあれば!
最大約3,300人が乗れる船に対し、実際に搭載された救命ボートは20隻、定員約1,178人。

しかし、ここで見逃せない事実はタイタニックの設計上、デッキには最大約64隻の救命ボートを搭載できるスペースがあったという点です。

つまり、物理的には、より多くの命を救える余地があった。それでも搭載していた救命ボートは20隻にとどまった。

✅ 当時の法規制は満たしていた。

✅ 「不沈船」という前提もあった。

✅ コストと景観上の配慮もあった。

だが、乗客にとってそれらは本質的な問題ではありません。

誰も、「全員分の救命ボートがあるか?」

という問いを真剣にタイタニックに乗船する意思決定のテーブルに上げなかったことです。

これがWYSIATI

7.老後の「救命ボート」

タイタニックの乗客にとっての救命ボートは、沈没を前提にしたとき初めて意味を持つ備えでした。

老後における救命ボートも同じ。
私たちもタイタニック号に乗ろうとしているかもしれません。

✅ 代表性ヒューリスティックが働く
「元気に働いている自分」は「将来も自立している自分」のイメージにぴったり重なる。
基礎率(発生確率)は確認されない。

✅ 利用可能性ヒューリスティックも働く
介護の混乱や判断不能の現場は、自分の経験としては想起しにくい。
想起できないものは、重要に見えない。

✅ アンカリングもある
「まだ若い」
「うちは大丈夫」
という最初の自己評価が基準になる

✅ ハロー効果も働く
「今まで大きな病気をしていない」
という一点が、将来の安全まで保証しているように感じられる。

✅ そして現状維持バイアス
今、問題は起きていない。だから未来も続くと感じる。

老後の問題は、突然やってくる氷山ではなく、やがて見えてくる氷山です。
そして、備えの不足もまた、見えていない救命ボートです。

6.要約すると

WYSIATIは、単なる比喩ではありません。

✅ 代表性

✅ 利用可能性

✅ アンカリング

✅ ハロー効果

✅ 現状維持バイアス

数十年にわたる実験研究が示してきた人間の認知の特徴です。
ヒューリスティックが判断材料を偏らせ、偏った材料の中で一貫した物語が完成する。
その物語の外にある情報は、検討対象にすら上がらない。

これがWYSIATI。

タイタニックの悲劇は、氷山だけではなかった。救命ボートの数でした。
では、あなたの船(人生の)に、救命ボートは足りていますか?

WYSIATIの補正の方法

WYSIATIは消せません。それは生まれる前から刷り込まれた人間の認知の仕様だからです。

しかし、補正はできます。方法は単純。

1️⃣ 未経験を疑似体験すること
見えていない問いを、意図的にテーブルに上げること。沈没という可能性を、想像の中で一度経験すること。

2️⃣ 非連続化
未来を現状の延長線上で考えないこと

この2点を年に一度くらい実践すれば、一度きりの人生を氷の海で泳がないで済みます。

その方法は?
簡単です!Happy Ending カードで未経験を疑似体験し、未来を非連続的に考えるのです。