「私はやっと、自分の人生が何かわかりました。私の人生は、もっと良い人間になるために、特別に猶予をしてもらっているものだったのです。」
( ヴィクトール・フランクルへの手紙 「 それでも人生にイエスと言う」 )
ヴィクトール・フランクルのラジオ講演を聴いた85歳6ヶ月の女性視聴者からフランクルに向けた手紙の一部です。この手紙を書いた女性は人生の意味を85歳6ヵ月でつかまえたようです。
何のために生きているのか?
よく言われる人生の意味・意義です。
「何のために生きているのか?」は、人間だけが自身に対して発することができる問いなのです。チンパンジー以下の動物には意識がないので、意味を考えることはできませんから。
そんなことを考えるのは面倒だと言う人は、人生の意味・意義を考えなくてもすむチンパンジーとして生まれた方がよかったと思うかもしれませんが、そういう訳にはいきません。人間として生まれた以上、この問題からは逃げることができないのです。
☞ これからの人生を考えること = 人生の意味を考えること
☞ 何をしたいのか?
☞ なぜ、それをしたいのか?何のために!
☞ どうしたら、したいことがわかるか?
このステップで、ナチスの強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルの著作を起点に考えてみましょう。
WHY?原因・理由を知りたがる人間
人間は 目の前に生じた結果を認識するだけでがまんすることができない生きものです。なぜそのような事象(結果)が起こったのか、その理由までわからずにはいられないのです。
よく子どもは「何で?どうして?」を繰り返して親や先生を困らせます。なぜ子どもに限らず、人間はWHY?を連発するのでしょうか?これはなぜ?の入れ子ですね。
3つ理由を挙げてみましょう。
- 安定した自分と秩序を望む人間にとって、原因がわからない結果の発生は不確実性の増大であり、安定した秩序の崩壊であるため、原因を理解することによって秩序を安定させたいと思うから
- 原因は予兆であり、原因がわかれば、同じような事象が起こった場合に事前にコントロールしやすくなります。経験するとは結果だけでなく、因果を理解してはじめて経験したと言えるのです。因果の理解ができない事象は経験とはなり得ません。
- 物語を好む人間は原因のわからない結果だけ見てもおもしろくないからです。映画を観ても主人公がハッピーエンドになった理由が理解できなければ、観る意味がないと思うでしょう。
<ケース:高校受験を控える中学生>
ある中学生が予備校の模擬試験を受験したところ、志望高の合格判定はCランク(不合格)とされました。これは結果です。しかし、受験した科目のそれぞれの得点も、どの問題が不正解だったのかは明らかにされなかったとします。
志望高は合格する見込がないという結果は分かったものの、不合格である原因が全くわかりません。どの科目でどの問題が不正解だったのか?そして、その問題に対する正解が何だったのかがわからないのです。
これでは合格に向けて対策の取りようがありません。受験生は当然志望高が不合格判定であった理由を知りたいはずです。
従って、このような模擬試験はありません。誰も受験しないでしょう。どこの模擬試験も得点と模範解答が配布され、不合格であった原因をすべて把握することができる仕組みになっています。
模擬試験の受験は合否の結果だけでなく、その詳細な原因が明らかになってはじめて意味・意義のある行動となるのです。
一方、この志望高が入試ではなく、抽選で合格者を決めた場合はどうでしょうか?
抽選に外れたという結果に対して、受験生はその原因を追及することはできません。それはたまたまであって、原因の追及のしようがないからです。
このように考えると、生じたものごとの因果を知りたいという欲求の程度は、自分がどの程度その結果に関与しているかによって違ってくることになります。志望高への入学が自分の努力と関係が深い場合にはその原因を深く知る必要がありますし、抽選のように偶然の結果であれば、因果を知る必要もないのです。
志望高に入りたいという動機には志望高に入る意味・意義が含まれています。結果と原因の因果関係を知りたいという欲求は、結果に対して意味・意義を要求する習性と密接に関係しています。
ものごとに意味・意義を見出したい人間
意味・意義は、何らかによって生じる価値と尊厳です。
価値はモノにもありますが、尊厳はモノにはなく人間にしかないとフランクルは言います。人生の意味・意義は自分の行動の及ぼす価値と尊厳への評価ということになります。
自分の行動を評価するためには評価基準が必要です。自分の行動の評価の基準となるのは、自身の持つ価値観、目的です。
意味・意義はそれぞれの人が自分の価値観、目的に沿って感じるものですから、その当然の結果として、ある事象に対して感じる意味・意義は人それぞれです。
さらに注意が必要なのは、それなりの価値観、目的がなければ、自分の行動を評価することができず、その結果、意味・意義を感じることができないという点です。
このように、結果に対する原因・理由を探求することから意味・意義が生じます。原因は複合的な場合が少なくありませんし、そこから引き出される意味・意義は本人個別のものであり、ひとつとは限りません。
意味・意義は、志望高への合格というその場その場の結果に対するものもあれば、仕事をする意味・意義とか、子育てをする意味・意義、さらに人生の意味・意義ということに拡げて考える場合があります。
シニアにとっての人生の意味・意義
人生の意味・意義については、中・高校生などの思春期が最も人生を意味を考える時期であると思われますが、それは、パーソナリティとなる価値観、尊厳性を作り始めるタイミングであるためです。
仕事や子育てが忙しい時期はそれ自身が人生の意味・意義化しているのに加えて、それらに追われて人生の意味を問う時間がないので、人生の意味・意義を考える必要性は結果として小さいと言えます。
一方、老後は青年期に劣らず人生の意味・意義について考えてしまいます。主だった仕事を引退し、子育てを終えて、時間に余裕ができたためです。今までの半生を振り返り、残された人生を考える余裕と必要があるからです。
さらに、定年退職の前後で、今までの自分にイニシアチブを行使していたのが誰であったのかがわかります。
今までの人生のことは全部自分で気づいて、自分で決めていたように思い込んでいたのですが、実は、勉強は学校の先生から、生活は母親から、仕事は上司から、子育ては子どもからの指示であったことになどに気づきます。
そして、何をすべきか指示をしてくれる教師、母親、上司、子どもがいなくなった今、これからは全部自分で決めなければならないのです。
全部自分で選択しなければならない際に必要なのは、自分が何に意味・意義を感じるかです。それがわからなければ選択することができません。自分の価値観、尊厳性を振り返る必要があります。
孫がジイジ(祖父)、バアバ(祖母)、にたずねたこと
ここでは仕事や子育てが一段落したシニアの男女に焦点を絞って考えてみましょう。定年延長で働いているとか、孫の子育てを手伝っている人もこの範疇に含まれます。
すでに仕事は引退しました。これからは年金と貯蓄で生活していきます。女性は子育てと仕事から引退しました。
さて、これから何をするつもりですか?
ジイジ(バアバ)が孫から次のように聞かれたら何と答えるでしょうか?
孫「ジイジ(バアバ)は定年後は何をするの?」
ジイジ(バアバ)「これから旅行などをしてのんびり暮らすんだよ」
孫「何のために?」
ジイジ(バアバ)「…………」理由を答えられない……
おそらく、このように聞かれることはないでしょうが、聞かれないとも限りません。
子どもは何に対しても理由を知りたがります。「何のために?」がその理由であり、ジイジ(バアバ)にとっての人生の意味・意義になります。
人生の意味・意義はもう充分だ!という人もいるかもしれません。これまで、がんばってきたのだから、のんびりしても家族からは許されるでしょう。
しかし、家族は許してくれたとしても、意味・意義を常に求める人間であるあなた自身がそれでよしとするでしょうか?
生命の意味についてのコペルニクス的転換とは?(ヴィクトール・フランクル)
「ここで必要なのは、生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何を我々はまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何を我々から期待するかが問題なのである。……
すなわち、我々が人生の意味を問うのではなくて、我々自身が問われたものとして体験されるのである。 人生は我々に毎日毎時問いを提出し、我々はその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。
人生と言うのは、結局、人生の意味の問題に正しく答えること、 人生が各自に関する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである。」
ヴィクトール・フランクルはナチスの強制収容所から奇跡的に生還したユダヤ系オーストリア人です。彼は、オーストリアがナチスドイツに併合されて以降、ナチスから子どもの中絶を強要され、両親と妻とともに強制収容所に送られてしまいますが、唯一彼だけが生き残ったのです。
(この部分はアンネ・フランクの父オットー・フランクと似ています)
その後、ウィーン大学医学部精神科教授兼ウィーン市立病院精神科部長となります。
彼はアウシュヴィッツをはじめとする強制収容所における過酷なその体験が強制収容所に収容された囚人の心にどのように反映していったのかを「夜と霧」に書いたのです。上の文章はその一節です。彼は強制収容所における経験を通して、人生の意味に対する見解をコペルニクス的に転換する必要があると主張します。
一般論 ☞ 人生の意味・意義はどこかにあって自分が捜すものだ
コペルニクス的転換 ☞ 人生の意味・意義は自分が人生から問われているのだ
人生の意味を人生に問うのは間違っている!
むしろ、自分が人生の意味を人生から問われているのだ!
というのです。
自分探しをしている人に教えてあげたいですね。
自分で人生の意味・意義を捜さなくてもよいとなれば、気が楽になりませんか?一日、一瞬の時々にその場における人生の意味・意義を考えるのです。
一度「夜と霧」を読んでみてください。
意味・意義の判定基準である価値観、目的の見つけ方
フランクルのコペルニクス的転換に賛同できるのであれば、人生の意味・意義は自分で捜さなくてもよいでしょう。
そうであれば、日々人生から問われる意味と意義にあなたが行動で答えればよいのですが、基準となる自分自身の価値観と目的がわからなければ人生から問われる意味と意義に対するあなたの行動を選択することができません。判断基準がないからです。
どうすれば、自分の価値観と目的を把握することができるでしょうか?
フランクルはこの点については述べていません。
知っているようで、よくわからないのが自分自身です。なぜ、そんなことをしたのだろうとか、言ったのだろうというような経験をしたことはありませんか?
実際のところ、他人のことはよくわかっても自分で自分自身のことを理解するのは容易ではありません。なぜならば、判断の大半は無意識が行っており、無意識を意識がとらえることができないからです。
ではどうすれば、無意識を中心とする自分の価値観と目的を把握することができるのか?
まずは、残された人生においてやりたいコトを決めることです。
やりたいコトの大半はおそらく無意識が決めます。
やりたいコトを決めた後に、なぜそのコトをやりたいと思ったのかを意識で考えます。無意識が決めたコトを意識が後付けで意味・意義を言語化するのです。
それを繰り返すことによって、あなた自身の無意識下にある価値観と目的を知ることができるはずです。
もし、自分が死ぬまでにやりたいコトがわからないとか、決めることにお困りであれば、Happy Ending カードがあなたが死ぬまでにやりたいと思っていることを教えてくれます。無意識下にある自分自身の価値観と目的を知りたいと思われたら、Happy Ending カードをプレイしてみてください。