A.前向きの人生

「アンネの日記」アンネ・フランクの 父オットー・フランクの選択

人は一日に何十回も選択をしていますが、
ひとつの選択が家族の運命を変えてしまうことがあります。
その選択がベストだったのか、それともよりよい選択肢があったのか?

人生は決断と後悔の連続です。
後悔しない人生にするために!
「アンネの日記」の作者であるアンネ・フランクの父親でありその出版者であるオットー・フランクの選択のケースを我がことに活かしましょう。

選択肢A:フランクフルト(ドイツ)→アムステルダム(オランダ)→アウシュヴィッツ(ポーランド)→ベルゲン・ベルゼン(ドイツ)

選択肢B:フランクフルト(ドイツ)→米国→?

「アンネの日記」は自分で読んでいただくとして、日記の内容ではなく、ユダヤ人の一家がナチスドイツの迫害から逃れるために取った選択について後知恵をいっぱい使って反実思考してみましょう。

(反実思考についてはこちらのblogをご覧ください → 「後悔をチャンスに変える!反実思考と予期的後悔とは?」

オットーはオランダを選択する

アンネの家族は、父オットー、母エーディト、姉マルゴーの4人家族でフランクフルトに暮らしていました。オットーは銀行家を父に持ち、第一次世界大戦ではドイツ軍の砲兵隊の中尉として戦い、第一級鉄十字章を受けていた中流階級のドイツ人でした。ただし、一家がユダヤ系のドイツ人であったことがその後の悲劇を巻き起こします。

第一次大戦後のワイマール共和国は経済的な苦境に追い込まれていましたが、1929年の大恐慌がダメ押しをします。その世情の下でユダヤ人の排斥を主張するナチス党が次第に台頭し、ついにヒトラーのナチス党が政権を取ることになりました。

まさか!
ドイツ人として生まれ、ドイツ軍兵士として戦い、第一級鉄十字章の授賞者とその家族がいきなりドイツ人として認められなくなり、迫害されるのはまさか以外の何ものでもありません。

オットーとエーディトはそのリスクを漫然と見過ごしませんでした。
ユダヤ人への迫害が顕在化するのを見て、オットーとエーディトは祖国ドイツを離れる決意をしました。夫婦の決断が早かったことは下の年表を見るとわかります。ヒトラーが政権を取ったのが1933年1月であったのに対して、オットーが移住のためにアムステルダムに会社を設立したのは同年6月だったのです。

1933年1月         ナチス党が第一党となり、ヒトラー政権樹立

1933年6月         オットーが単身オランダでペクチン販売代理店会社を設立

1933年12月       エーディト、マルゴーがアムステルダムへ移住

1934年2月         アンネがアムステルダムへ移住

1935年9月         ニュルンベルク法成立

1936年3月         ラインラント進駐

1938年3月         オーストリア併合

1938年11月       水晶の夜事件(反ユダヤ主義暴動)

1939年9月         ポーランド侵攻 第二次世界大戦始まる

1940年5月         オランダ侵攻

1942年7月         マルゴーへの招集通知→隠れ家での生活開始

1944年8月         アンネ一家が逮捕され、アウシュヴィッツ強制収容所へ移送

1945年2月         アンネ、マルゴー 死亡

1945年5月         ドイツ降伏 オットー アウシュヴィッツにて解放される

1945年7月         オットー、ミープ・ギースからアンネの日記を受け取る

1947年            「アンネの日記」オランダ語版出版

 

映画「さすらいの後悔」 移住が間に合わなかったケース

1939年5月(9月に第二次大戦が始まる)にハンブルグからセントルイス号に乗ってキューバを目指した937名のユダヤ人の物語。彼等は目的地のハバナに上陸することができず、ヨーロッパに戻らざるを得なくなりました。その乗船客の中で多くの人がホロコーストの犠牲になりました。彼等が遅すぎたのに対して、1933年にオランダに移住したオットーの決断は早かったのです。

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オランダを選択した結果

🔹1933年にオランダに移住してからしばらく一家はオランダ人として生活することができました。

🔹しかし、1939年9月にナチスドイツはポーランドに侵攻し、1940年5月にはオランダにも侵攻して占領した結果、住み慣れたフランクフルトを捨ててアムステルダムへ移住した一家の置かれた環境は、元の木阿弥となってしまいました。

🔹ナチスドイツ占領下であるにもかかわらず、引き続き一家はアムステルダムで暮らしますが、ユダヤ人への締め付けは日々強化され、1942年7月に長女のマルゴーにナチスから召集令状が来たことをきっかけに、フランク一家は隠れ家での潜伏生活を始めます。潜伏生活は2年に及びます。

🔹連合軍は1944年6月にノルマンディに上陸し、オランダも間もなく解放されると期待されていましたが、1944年8月4日、ナチス親衛隊保安局は何者かの密告により一家の潜伏を察知して一家全員を逮捕します。
その後、4人はアウシュビッツなどの強制収容所に送られ、エーディト、マルゴー、アンネは終戦直前(1945年2月)にベルゼン・ベルゲン収容所にて亡くなります。

🔹一方、オットーは4人家族の中でただ1人生き残りました。1945年にアムステルダムに戻ったオットーに残っていたのはアンネの日記だけでした。

オランダを移住先に選択した結果について、彼がした後悔は私たちの想像の及ぶところではありません。

ユダヤ人の避難先(1933年〜1939年 引用anne franc house

オットーはオランダを選択しましたが、他のユダヤ人は様々な国を選択し、生き残りました。

赤字の国はオランダ同様、ドイツに占領されてしまった国であり、それらの国に避難したユダヤ人はアンネ一家と同じような境遇になった可能性が高いでしょう。

米国                102,200

アルゼンチン       45,000

パレスチナ          55,000

英国                  52,000

オランダ             30,000

ベルギー             30,000

フランス             30,000

南アフリカ           26,100

ポーランド           25,000

上海                   20,000

ポルトガル           12,000

オーストラリア        8,600

ブラジル                8,000

スイス                   7,000

ユーゴストラビア    7,000

ボリビア               7,000

カナダ                  6,000

日本                      数百

選択に際しての判断材料 移住を巡る当時の状況

オットーは、なぜ米国に避難しなかったのか?
ドイツと陸続きの国よりは大西洋を隔てた米国が安全であることは誰の目にも明らかであったはずです。アンネが日記に書いている通り、母エーディトの兄弟、アンネの叔父さんふたりは米国に避難したのです。さらに、オットーは米国で働いていた経験もありました。

彼が米国を選ばなかった理由は何だったのでしょうか?

1.アムステルダムにおける事業経験

オットーは母親が経営していたミカエル・フランク銀行の実質的な支店をアムステルダムに開設した経験があったので、同地に土地感がありました。(1923年開設、1929年精算)

2.収入

1933年には経営を引き継いでいたミカエル・フランク銀行は経営状態が悪化し、営業停止。収入の道を失ったオットーは借家を返して一家で実家に身を寄せたほどだったのです。

そのような時に、スイスにいた義兄(姉の夫)から提案が舞い込んできました。義兄はスイスに移住して、プランクフルトにあるペクチン製造会社のスイスにおける販売代理店を始めていましたが、その製造会社がオランダにも進出を考えているので、オランダで自分と同じようにペクチンの販売代理店をやらないかと、オットーに持ちかけてきたのです。ペクチンとはジャムをゼリー状にするゲル化剤です。

オットーは義兄の提案を受け入れ、早速アムステルダムに行き、事業を開始します。ペクチンの販売に加えてハーブの取扱いを始めましたが、オランダにおける新事業が大きな売上を上げることはありませんでしたが、いずれにしても収入を得る仕事を作ったのです。

3.各国の移民政策

当時も現在も無制限に移民を受け入れる国はありませんが、当時どこの国においてもユダヤ人移民は敬遠されていました。

しかも、1929年の世界恐慌で世界中が失業者で溢れていました。各国の政府は自国民に仕事を創り出すことが第一であり、外国から新たな労働力を受け入れることに積極的になる動機はありませんでした。

米国では1924年に移民法が成立し、アジア人(日本人)を中心として移民を厳しく制限する方向にありました。アジア人以外にも国別に移民枠が設けられていました。また、大統領フランクリン・ルーズベルトはユダヤ人問題をドイツの内政問題であるとして、人道的な問題としてもさほど関心を示しませんでした。

そうだとしても、1932年から1935年までにドイツからアメリカが受け入れたユダヤ系ドイツ人は14,202名です。アルベルト・アインシュタイン、トーマス・マン、ブルーノ・ワルターなどの著名人も含まれます。

それに対して、オランダは歴史的に比較的移民の受け入れに寛容な国でした。

4.ビザ

外国に入国する際にはその国の領事館が発行するビザ(査証)が必要となりますが、外国の領事館がビザを発行する際には、国籍を有する国の様々な証明書類等が求められます。ニュルンベルク法が成立したのちにドイツ国籍を失ったユダヤ人がビザを取得するのは困難でした。また、各国の領事館も移民に対するビザ(査証)は限定的であったようです。

しかし、1933年当時ドイツからオランダへはビザなしで入国することができたのです。

5.歴史

オランダは言語もドイツ語に近く、歴史的にも統一前からドイツ諸国と戦争をしたことはありませんでした。むしろ歴史的に戦争した相手は英仏だったのです。

第一次世界大戦において、ドイツはフランスと戦うためにベルギー、ルクセンブルグには侵攻したものの、オランダに侵攻しなかったため、オランダは中立を維持することができました。第一次世界大戦にドイツ軍の兵士として従軍していたオットーはその経験から、ドイツが再び英仏と戦うことになっても、オランダに侵攻することはないと考えていた可能性があります。

オットーの、第一次世界大戦においてドイツはオランダの中立を犯さなかったという歴史的経験は裏目に出たと言えます。

オットーの確証バイアス

確証バイアス

オットーはオランダを選択しました。もちろん、当時のオットーが選択に必要な情報を全て得ることはできなかったでしょう。選択は常にある程度の不確実性の下に行われます。

オットーが立てた仮説は、オランダに移住することによって家族が安全に暮らすことができるというものであったはずですが、反証により検証しなければ、その仮説が正しいという確証が得られません。立てた仮説を支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視するもしくは集めようとしない傾向を確証バイアスと言います

行動心理学の発展は、人間の心の中に過去のパターン認識に基づく直観(システム1)と将来まで分析的に考える熟慮(システム2)の二つのシステムが相互に作用して意思決定を行っていることを発見しました。

まずは、過去のパターン認識から来る直観(システム1)がシナリオを作ります。直観はたいがい正しいと言われていますが、バイアスに惑わされることもあります。そこで、その直観が正しいかどうか、熟慮(システム2)の検証が必要ですが、その検証は行われないことも少なくありません。

オットーの場合、直観(システム1)が上記5点の情報を確証バイアスとして用いて安全であるとのストーリーを創り上げてしまい、その際に熟慮(システム2)が十分な反証を行わなかった可能性があります。オットーに必要だったのは、直観(システム1)が作ったオランダへの移住が安全であるというストーリーへの反証でした。

なぜオットーの熟慮(システム2)はオランダへの移住に反証を行わなかったのでしょうか?

熟慮(システム2)は怠け者であり、疲れやすいという性格があります。1933年当時のオットーが考えて選択すべきことは山ほどあったことでしょう。そのような環境下では熟慮(システム2)は働きにくく、直観(システム1)が優位となることに注意が必要です。

WYSIATI (what you see is all there is)

自分の見たものが全てだと決めつけてかかり、見えないものは存在しないとばかり探そうともしない。限られた手元情報に基づいて、結論に飛びつく傾向をwysiatiと言います。
オットーが経験していないことは、過去の経験から来るパターン認識,すなわち直観(システム1)には現れてきませんから、将来を考える熟慮(システム2)を使う必要があります。

ローマの神殿を訪れた男の物語

この訪問者が神々の力に感銘を受けるよう、ローマ人は、先ごろ船が難破したのに、信仰心のおかげで生き残ったとされる敬虔な船乗りたちの肖像画を見せた。

これが、奇跡の証拠だと信じるよう迫られた訪問者は、抜け目なく尋ねた。
「ですが、神々に誓いを立てていたのに、 死んだ船乗りたちの肖像画はどこですか。」

未来を創造するとき、どの想像が欠けているかほとんど気づかない。その欠けている部分は、我々が思っているよりはるかに重要なのだ。」
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ローマ人は訪問者に信仰心のおかげで助かったとされる船乗りの絵だけを見せて奇跡を信じさせようとしましたが、旅人は熟慮(システム2)が直観(システム1)に見えていない部分、信仰心はあったものの難破した船乗りの存在に気づいて反証したのです。

結論を急ぐ直観(システム1)は自分に都合のよい情報には興味を示しますが、それ以外の情報は全く無視してしまいます。ところが直観(システム1)の作るシナリオはよくできているので、人はそれを簡単に信じてしまいます。

旅人が反証することができたのは、熟慮(システム2)が働く余裕があったからです。熟慮(システム2)に働かせるためには余裕が必要です。

反実思考

家族の安全を考えて、住み慣れたフランクフルトを捨てたオットーの目論見は無残な結果となってしまいました。オットー自身が後悔したか否かはわかりませんが、ここで他人の経験を私たちに活かすために、オットーのケースを反実思考してみましょう。

上向きの反実思考(IF)


「もし〜していたら……になっていたであろう」
と考えるのが上向きの反実思考です。

「……になっていたであろう」は直面した現実よりよい状態をイメージします。

反実思考の結果とそれを招く選択はひとつとは限りません。思いつく限り拾い上げてその中から選択することが重要です。(利用可能性ヒューリスティックの排除)

結果

「……になっていたであろう」

選択

「もし〜していたら」

実現の可能性
隠れ家で見つかったとしても、オットーの前大戦の功績に免じて逮捕を免れたであろう逮捕される前に親衛隊に自首して、オットーの前大戦の功績をアピールしてドイツ人として扱ってもらう
アムステルダムで戦争が終わるまで一家全員が生き延びることができたであろう隠れ家の存在を密告しそうな人物(裏切り者)をあらかじめ排除しておく
ドイツに占領されなかった国で一家4人幸せに暮らしていたであろうオランダではなくはじめから米国に避難しておく

上向きの反実思考を3つ挙げてみました。他に考えつくでしょうか?
この3つの中ではやはり、3番目の米国に避難するという選択肢が有力だと思います。同時期に14,000名が亡命していたのですから。
あなたは、どのような上向きの反実思考をしたでしょうか?

下向きの反実思考(ONLY)「せめてもの幸いは、……だったこと」

下向きの反実思考は、現実に直面した状態よりは悪い状態をイメージすると、自分を慰める効果があります。

1️⃣ せめてもの幸いは、6年間だけでも一家が生き延びることができたことだ

2️⃣ せめてもの幸いは、私自身だけでも生き残ったことだ

3️⃣ せめてもの幸いは、「アンネの日記」を出版することができたことだ

オットーは下向きの反実思考をして、救われたでしょうか?

予期的後悔「もし〜をしなければ、私はその決断を後悔するだろうか?」

オットーがしたであろう予期的後悔

オットーは1933年にいち早くオランダに移住しました。
それは次のような予期的後悔をした結果だと言えます。
「もし、一家でドイツを離れようとしなければ、私はドイツから離れない決断を後悔するだろうか?」

そこまではよかったのですが、その後の6年間に問題がありました。
オランダに移住した後も、ナチスドイツの脅威はドイツ国内に止まらないことは誰の目から見ても明らかでした。

1936年3月 ラインラント進駐

1938年3月 オーストリア併合

1938年9月 ズデーデン地方割譲

1939年3月 チェコスロバキア併合

1939年9月 ポーランド侵攻

1940年5月 オランダ侵攻

オットーがしなかったかもしれない予期的後悔


オットーには1933年のオランダへの移住を見直す予期的後悔をするチャンスは何回もあったはずです。そして、次の予期的後悔をすべきでした。

「もし、一家で米国に移住しなければ、私は米国に移住しない決断を後悔するだろうか?」

「 アンネの日記 1944年5月22日月曜日

確かに、イギリスは、かつてドイツが再軍備に狂奔している間、眠ったふりをしていたと責められるべきでしょうが、それを言うなら、他の国々、特にドイツと国境を接している。他のすべての国々も、 やはり眠っていたことは否定できません。ダチョウじゃあるまいし、頭だけ砂に突っ込んで、見えないつもりになっていても、何もならないのです。」

アンネの日記 文芸春秋

アンネは英仏政府がダチョウスタイルに陥っていることを日記に非難していますが、ナチスドイツに占領される前にアムステルダムから避難しなかった一家もダチョウスタイルに陥っていたかもしれません。

オットーの経験を共有する

私たちには当時のオットーが直面した現実はわかりませんし、オットーを裁く裁判官でもありません。むしろ傍聴人の立場で、オットーが直面した現実を少しでも理解して、自分だったらどのような選択をするかを考えてパターン化することができたら、自分と家族が後悔しないために活かすことができるというものです。即ち他人の経験を自分の経験にするのです。

オットーは上向きの反実思考をして後悔したでしょうか?それとも、下向きの反実思考をして自分を慰めたでしょうか?その両方でしょうか?

要約すると

あなたがこれからする後悔は何でしょうか?
原因は様々ですが、誰にでも死は訪れ、いつやってくるかはわかりません。
オットーのケースがホロコーストであったのに対して、私たちのケースはがん等の病気の罹患、親の介護、務めていた会社の倒産、戦争かもしれません。

その後悔をもたらすのはこれから私たちがする選択です!
後悔を上手に使ったらいかがでしょうか。

🎯 後悔することがあったら、上向きの反実思考をして今後のチャンスに活かす

🎯 上向きの反実思考をするのがつらいときは,下向きの反実思考をして自分を慰める

🎯 重要なことは、予期的後悔をして予め後悔を回避する

あなたがしていないかもしれない予期的後悔

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オードリー・ヘップバーンもオランダに!?

女優のオードリー・ヘップバーンはアンネと同じ年の生まれで、ドイツの占領下のオランダのアーネムで生き抜き、戦後ご存知の通り大女優になりました。

アンネの一家がアムステルダムの隠れ家で生き延びることができていたら、あれだけの日記を書いたアンネは大作家になっていたかもしれません。

オットーはアンネと家族を永遠に生かす方法として、アンネの日記を書籍として出版したのかもしれません。アンネとオットーはミーム(meme)として生きているのです。