本稿は、「なぜ、人はわかりきったリスクに備えないのか?」をテーマとする予期的後悔リテラシーの一環です。
「何もしなかった」ことが、最大のリスクになるとき
✅ 老後の生活資金について、「そのうち考えよう」と思っているうちに時間が過ぎていた。
✅ 親の介護について、「まだ先の話だ」と思っていたら、突然現実になった。
✅ 延命治療や住まい、相続の話を決めないまま、いざというとき、家族が迷い、対立することになった。
みたいなことを経験した、あるいは見聞きしたことはありませんか?
こうした出来事の多くは、間違った選択をした「結果」ではありません。
むしろ、何も選ばなかったことの「結果」として起きています。
行動経済学では、この「何もしない状態」を続けようとする思考を現状維持バイアスと呼びます。どこかで聞いたことがあると思います。
現状維持バイアスに囚われていることに気づいていないこと自体が現状維持バイアスなのですが、そのメカニズムをちゃんと知っておきたいと思いませんか?
現状維持バイアスは「性格の問題」なのか?
多くの解説記事や入門書では、現状維持バイアスをあまり好ましくないことして、次のように説明します。
🔹 人は変化を嫌う
🔹 今の状態を維持したがる
🔹 それは誰にでもある心のクセだ
🔹 意識して克服することが大切だ
一見、もっともらしく聞こえます。しかし、ここで素朴な疑問が湧きませんか?
なぜ、原因もデメリットも克服法も分かっているはずなのに、老後や人生後半の問題になると、まったく行動が始まらないのか?
もし、現状維持バイアスが「性格」や「心のクセ」だとしたら、もう少し行動できていてもよさそうだと思いませんか?しかし現実はそうではなさそうです。
なぜ、いわゆる現状維持バイアスの「対処法」が役に立たないのか
よく紹介される対処法には、次のようなものがあります。
🔹 バイアスの存在を認知する
🔹 データを集めて比較検討する
🔹 第三者の意見を聞く
🔹 小さな変化から始める
どれも間違ってはいません。しかし、将来の話、老後への備えや介護の話題になると、これらの方法はほとんど機能しません。
なぜでしょうか。
それは、これらの方法がすべて人は考えれば判断できるという前提に立っているからです。
しかし現実には、
🔹 情報を集めようとしない
🔹 比較検討に入らない
🔹 「今はいい」という言葉で終わる
という状態が起きています。これは判断ミスではありません。そもそも、判断の前段階の検討すら始まっていないのです。
視点を変える:現状維持バイアスは「判断」ではない
ここで、現状維持バイアスの捉え方を一度ひっくり返してみましょう。
現状維持バイアスとは、
🔹 現状を維持することを選んだ
🔹 他の選択肢と比較した結果、変えないと決めた
という意識的な判断ではありません。
実際には、
✅ 比較していない
✅ 検討していない
✅ 選択肢を並べてもいない
ただ、思考が止まっている状態です。では、なぜ止まるのでしょうか。
本当の原因:システム1(直感的思考)の役割
人の思考には、大きく分けて二つのモードがあります。
🔹 システム1(直感的思考):速く、自動的で、感情的
🔹 システム2(論理的思考):遅く、意識的で、分析的
重要なのは、将来のことを考えるのは、システム2(論理的思考)の役割であるにもかかわらず、システム2(論理的思考)は、システム1(直感的思考)から材料が渡されなければ動けないという点です。

つまり、「考えない」のではなく、「考える材料が届いていない」という状態が起き得えるということなのです。
【コラム】なぜシステム1は「変化」を嫌うのか
ー 狩猟採集時代から続く、生存のための思考プロセス ー

システム1(直感的思考)の性格は、現代社会に最適化されたものではありません。
現生人類は約30万年前に登場し、農耕が始まったのは約1.1万~1.2万年前です。つまり私たち人間は、人類史の約96%を狩猟採集生活として過ごしてきました。人類の歴史のほとんどは、狩猟採集生活だったと言えます。その環境では、安全が確認されていない行動は命取りでした。
✅ 知らない場所には捕食者がいるかもしれない
✅ 未知の食べ物は中毒のリスクがある
✅ 慣れない狩り方を試すなど
生き残ったのは、
🔹 変化に慎重な個体
🔹 危険を過大評価する個体
🔹 「今まで大丈夫だったやり方」を守った個体
でした。つまり現代の私たちにも受け継がれているシステム1(直感的思考)は、臆病なのではなく、狩猟採集生活の時代から生き残るために最適化された思考プロセスなのです。
なぜ老後の話題は、システム1(直感的思考)にとって最悪なのか
老後に関する話題には、次の特徴があります。
🔹 未経験
🔹 正解がない
🔹 考えるほど不安が増す
🔹 今すぐ役に立たない
これは、狩猟採集時代のシステム1(直感的思考)にとって、避けるべき刺激の塊です。そのためシステム1(直感的思考)は、「重要だから考えろ」ではなく「危険だから遮断せよ」という判断を下します。
下の図は人間の意思決定のフローを示しています。
左のフローのように、システム1(直感的思考)が情報をシステム2(論理的思考)に情報を伝えれば、システム2(論理的思考)が検討して選択を行いますが、右のフローでは、システム1(直感的思考)が情報を遮断してシステム2(論理的思考)に情報を伝えない結果、検討そのものが始まらないのです。
結果として何も起きていないように見える。この状態が、現状維持バイアスなのです。

現状維持バイアスは「原因」ではなく「結果」である
ここまでをまとめると、次の結論にたどり着きます。
現状維持バイアスは原因ではない。システム1(直感的思考)が自分を守ろうとした結果として、“何もしない状態”が生じているだけである。
何もしないとは「検討」も「選択」もしない結果、「行動」もしない状態です。
それは、性格の問題でも、意志の弱さでも、判断力の欠如でもありません。
では、どうすればシステム1(直感的思考)は動くのか
重要なのは、システム1(直感的思考)を説得しようとしないことです。
システム1(直感的思考)は、
✅ 論理では動きません
✅ データでは動きません
✅ 未来の話をそのままでは扱えません
ただ一つ、反応する条件があります。それは、未来の損失が、「今の感情」として立ち上がったときです。
未来を、「まだ起きていない出来事」ではなく、あたかも「すでに起きた出来事」であるかのように扱うことができるかどうか。
この視点が、現状維持バイアスを突破する鍵になります。
現状維持バイアスを認識してリスクの検討に至る方向性

現状維持バイアスを「克服すべき性格」と捉える限り、人は同じ場所で立ち止まり続けることになります。
では、どうすればシステム1(直感的思考)はシステム2(論理的思考)に情報を流すのでしょうか?
鍵になるのは、恐怖でも論理でもありません。
未来から現在に向けて投げかけられる「問い」です。
それを、予期的後悔リテラシーと言います。
予期的後悔リテラシーについては下のシリーズをご覧ください









