行動心理学

第1章 なぜ、わかりきったリスクに備えないのか ― システム1とダチョウスタイルの心理学

なぜ、人はわかりきったリスクに備えないのでしょうか?

🔥 地震が来るかもしれない……

🔥 老後の生活費が足りなくなるかもしれない……

🔥 糖尿病になってしまうかもしれない……

🔥 自動車事故を起こしてしまうかもしれない……

🔥 死ぬかもしれない……   等々……

あなたにもそのような覚えはありませんか?

誰もがそれらのリスクを理解しているにもかかわらず、行動を起こしている人は必ずしも多いとは言えません……

TVや新聞のニュースを見ながら不思議に思ったことはないでしょうか?
なぜ、そのようにわかりきったリスクに備えていなかったのだろう???

✅ 無知だから?
✅ 怠惰だから?
✅ 自分の人生を大切に思っていないから?

そうではありません!
この「わかっているのにできない」という現象は、人間の思考プロセスに深く根ざしています。

その鍵となるのがシステム1ダチョウスタイル(Ostrich Effect)です。
不安から目をそらす心理です。

この思考プロセスを理解することによって、リスクを上手に回避する方法を数回のシリーズで紹介します。今回はその第1回です。

システム1とシステム2 ― 二つの意思決定システムが同時に動いている

ノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは、『ファスト&スロー』(2011)で、人間の思考には二つのシステムがあると述べています。

ひとつはシステム1(直観的思考)です。
これは速く、自動的で、感情に影響されやすく、「感じる」ことを中心に無意識に動きます。危険を察知したり、反射的に行動したりするのはこのシステムです。

もうひとつはシステム2(熟考的思考)です。
こちらは遅く、論理的で、意識を用いて動き、エネルギーを使います。数字を計算したり、長期的な判断を下したりするのはこのシステムです。

私たちは人間として「常に理性的に考えて行動している」と思いがちですが、実際の意思決定の多くは、このシステム1による感情の自動運転(無意識的に)で行われていることが近年の様々な研究で明らかになってきました。

そして、このシステム1は不安や恐怖を感じる場面では特に強く働きます。

この自動操縦のシステム1は遺伝子の指示と過去の経験のパターン認識を根拠に判断を行いますから、経験したことがないこと、あるいは慣れていないことを裁くのは苦手であり、判断を回避したり、判断を先送りしてしまう傾向があります。

また、不安や恐怖を感じると、システム1は即座に防衛反応を起こし、「それを考えない」「今はやめておこう」と目先の損失回避に動きます。

理性的なシステム2が慎重に判断をした方がよいと分かっていても、システム1が「嫌だ」「怖い」と感じた瞬間、判断のプロセスは止まってしまうのです。

人は情報では動かない ― 感情の防衛反応

わかりきったリスクへの行動を妨げているのは「怠け」ではなく、「感情の防衛本能」です。システム1は不快な情報を見ないことで目先の安心を保つように働いてしまうのです。

神経科学者ジョセフ・ルドゥーは『エモーショナル・ブレイン』(1996)で、人が恐怖を感じるとき、脳の扁桃体が危険をいち早く察知して“恐怖回路”を作動させることを明らかにしました。

上の図を見てください。
不安・恐怖の原因となるその信号に則扁桃体が反応します。
それは意識する以前に体を緊張させ、心拍を速め、同時に思考を司る前頭前野の働きを抑えてしまうのです。

そうなると、意識が働く以前に、前頭前野はすでに回転する力を失っています。

つまり、システム1は、「冷静に考える」よりも「怖さから逃げる」ことを優先するため、脳は「考えるより、見ない方が安全(心理的に)だ」と判断してしまいます。

これが、システム1がシステム2(理性・分析)を押しのける瞬間です。
システム2が出る幕はそこで閉じられてしまいます。

目先の安心を守るために現実から目をそらす ― ダチョウスタイルの正体 

行動経済学では、この心理的回避を「ダチョウ効果」と呼びます。

🔥 受験生が受験勉強を先送りする
🔥 投資家が損失を恐れて口座残高を確認しない、
🔥 健康診断を先延ばしにする
🔥 老後資金を試算しない。
🔥 親の介護の準備をしない

こうした「見ない安心」は、短期的には心理的な安定をキープしますが、長期的には現実への対応を遅らせ、リスクを拡大させてしまいまします。

進化心理学的に見れば、短期的に心理的安定を保もとうとするのは、原始的な生存本能の名残りです。平均寿命も20歳前後、いつ死ぬかもしれない古代であれば、回避しなければならないリスクは明日をも知れない将来のことではなく、今その時のことだけだったのです。

しかし、平均寿命が80歳を超える現代のリスクの中心は老後にあります。
人生100年時代に生きる現代社会におけるリスクは“すぐ目の前の外敵”ではなく、“老後”にあるのです。

システム1は古代から全く変わらず進歩しません。
進歩しているのは文化の恩恵を受けることができるシステム2なのです。

このように、システム1から生じるダチョウスタイルは今のことしか考えないため、自らの未来を危うくするリスクなのです。

老後のリスクもダチョウスタイルに落ちいる

老後の4大不安といわれるのは次のものです。

①健康
②お金
③孤独
④生き甲斐

これらは老後には「いずれ起こる」と誰もが知っているリスクです。
にもかかわらず備えが進まないのは、システム1が未来の恐怖を感じ取り、「考えない方が安全だ」と誤解しているからです。

老後の備えをしない人の多くは「自分はまだ大丈夫」「そのうちやる」と思っています。

それは意志の弱さではなく、いい加減であるのでもなく、人間が持って生まれた感情の短期的な自己防衛システムとしての回避であると理解しておくことが必要です。

不安に対峙して解決しようとするシステム2よりも、「今安心でいたい」というシステム1の本能が勝ってしまうのです。

(続く)

今回の気づきと第2章への続き

将来を想像する能力であるシステム2を持つ私たちは将来のリスクに備える力を有しています。しかしながら、システム1は将来を考える力がないにもかかわらず、将来のリスクを考えるのを回避してしまいます。

将来への備えをしないのは、怠けが原因ではありません。人間がもっているシステム1が原因なのです。
その点を予め認識することができれば、追い込まれる前に対処することができます。

(第2章への予告)
次回は、なぜ人は“リスクの情報”を得ても行動できないのか、その理由を「感情が意思決定を支配するメカニズム」から掘り下げます。

人を動かすのは情報ではなく、感情の物語です。次回では、その“感情の力”がどのように未来の選択を左右するのかを見ていきます。

 

要約すると

🔹 行動を先送りにする人は怠け者ではない。

🔹 システム1は将来を考慮することなく、「今の心理的安定」を守るために「未来の不安」を回避する。

🔹 将来を考えないシステム1をそのまま放置すると将来後悔することになる。

🔸 システム1のダチョウスタイルを予め認識していればその問題を回避する方法がある

カーネマンとトヴェルスキーは『プロスペクト理論』の中でこう指摘している。
「人は損失を回避するために、合理性を手放す。」

老後のリスク対処がダチョウスタイルに陥りがちです。
私たちは不安から逃げようとするあまり、
結果的に“最大のリスク”の解決を将来に先送りしてしまいがちです。

第2章へつづく ☞ 第2章 双頭の人間モデル ー システム1(直感的思考)とシステム 2(論理的思考)の併存