雪の降るある日の夜、歌を謳いながら公園のブランコを漕いでいるひとりの男性を見かけました……
この寒さの中でブランコを漕ぐなど尋常なこととは思えません。
しかも初老の老人が……
しかも、とても幸せそうな顔をしているのです。
なぜなのでしょうか?
後でその人が黒澤明の映画「生きる」の主人公渡辺勘治であり、翌朝死んでいたことがわかったのです。
黒澤明の映画「生きる」
30年間、机に座ってすでに“死んでいた男”
1952年に公開された黒澤明監督の『生きる』☞ 映画「生きる」
渡辺勘治は、東京のある市役所で30年間勤務し、市民課の課長として働く初老の男。
毎日同じ仕事を淡々とこなし、部下に指示を出し、定時に帰る。誰とも深く関わりませんでした。妻には先立たれ、同居する息子夫婦とも心が通い合わない関係でした。
そんな彼が胃の調子が悪くなり、病院を受診しました。
医師はレントゲンの写真から胃がんであると診断しましたが、それを本人には経度の胃潰瘍であると伝え、がんの告知しませんでした。医師によると余命は半年、もしくは1年だったのです。
5ヵ月後に渡辺勘治は亡くなります。
医師は彼ががんであることを告知しませんでしたが、彼に胃がんをほのめかしたのは病院の待合室にいた他の患者の男でした。
それは胃がんであり、余命は半年だよと……
初めて、“死”という現実が目の前に現れた瞬間、彼の顔から血の気が引き、何も手につかなくなります。
いきいきとした人生
病院を出た渡辺勘治は、偶然知り合った小説家とともにパチンコ、ダンスホール、キャバレーなど逃避に走りますが、心は満たされません。
市役所は無断欠勤を続けます。
そんな時、偶然再会したのが、かつての部下、小田切トヨ。
彼女は市役所は自分に向かないとして、子どもたちが喜ぶウサギのおもちゃを作る工場で働いていました。
渡辺勘治はいきいきとした小田切トヨにこう言います。
「死ぬまでに何かやりたいけれども、やりたいことがない……」
無邪気に彼女はこう言います。
「私は毎日、ウサギを作ってる。
子どもが喜ぶのを見ると、生きてるって感じがするの。
あなたも、何か作ってみたら?
子どもが喜ぶのを見ると、生きている感じがする!」
渡辺勘治にはしたいことをしていきいきと生きる小田切トヨが触媒となったのです。
渡辺勘治のしたくなったこと
いきいきしている小田切トヨからの「あなたも、何か作ってみたら?」の言葉から、彼に閃いたのは、彼が無視し続けてきた住民からの陳情の実現です。
住民からから上がっていた不衛生な空き地を子どもたちの公園に変えてほしいという陳情を自分のしたいことに変換したのです。
それを実現したら人が喜んでくれる……
これまで市民課長の自分が無視してきた公園の整備に突然乗り出します。
市役所内のあらゆる部門が責任を押しつけ合う中、
渡辺勘治は、自分の足で役所を駆け回り、時に頭を下げ、ヤクザと戦い、政治家に食い下がりながら、ついに公園を完成させます。
そして、完成した公園で歌を謳いながら雪の中でブランコを漕いでなくなるのです。
生きているけど生き甲斐をもって生きていない状態?
余命宣告を受けて後悔する人のタイプは3つ。
1️⃣ やりたいことがあり、それに取り組んでいるにもかかわらず、間にあわないかもしれないと思い、もっと早く始めればよかったと後悔する人
2️⃣ やりたいことがあるけど、そのうちやろうと先送りした結果、今さら間にあわないと後悔した人
3️⃣ そもそもやりたいことがなかったが、余命の認知によってやりたいことに気づいて後悔した人
渡辺勘治は、3番目のそもそもやりたいことがない人として描かれています。
上の3つの後悔はどれもしたくないものですが、私たちも渡辺勘治のようにはならないとは限りません……
死が生き甲斐を再認識させる
渡辺勘治が死を悟ってから気づいたことは、健康な時には何もしたいことがなかったにもかかわらず、皮肉にも死ぬ前に何かしたくなったということと、何かをしたくなったにもかかわらず、自分がしたいことがわからなかったということです。
彼がしたくなったことは生き甲斐と言い換えることができるでしょう。
人間として生まれて生きた甲斐です。
生き甲斐は人間だけのものです。チンパンジー以下の動物に将来のことを考える意識がないため、生き甲斐は思考の範囲外です。意識を持つ人間だけが自分に問うことができる高度な思考です。
生き甲斐は生きる理由と言い換えることができますが、生き甲斐を求める原点は人間が「理由」を知りたがり、あらゆるものに「意味」付けをしたがる存在であることにあります。
しかしながら、その人間も目先の生活や仕事に目を奪われていると、渡辺勘治のようにいつのまにか生き甲斐を忘れて生きることも不可能ではありません。渡辺勘治もずっと生き甲斐を持っていなかったわけではありません。彼の机の中に以前に作成した業務改善の企画書が入っていたことからもわかります。
怖いのは、いつの間にか生き甲斐を見失って生きる状態です。生き甲斐なく生きている自分に気づかないことです。
生き甲斐を見失っていたことを死が思い出させたのです。
死は人間に人生の決算を求めるのかもしれませんね。
このように考えると、むしろ死ぬまでに何かをしたいと思わないで生きる方がむしろ楽かもしれません。その価値観は人それぞれですが、あなたは生き甲斐を求めて生きるタイプでしょうか?それともなくて済むでしょうか?それとも余命を悟ってから生き甲斐を求める渡辺勘治型タイプでしょうか?
生き甲斐と時間(余命)のトレードオフ
「生きる」は何かと時間を交換する行為です。
ストラルドブラグのように時間が無限にあるのであれば何と交換してもかまわないのですが、普通の人間にとって有限の資源である時間は何と交換するのかを判断するのが優先順位の決定ということになります。なぜならば、時間と何を交換するかという優先順位を間違えると余命がわかった時点でやりたいことができなくなるからです。
生き甲斐を感じることと時間を交換するのか、生き甲斐を感じないことと時間を交換するのか?後悔したくなければ、優先順位を決める必要があります。
しかし、やりたいことの選択肢すらなければ、優先順位を決めることはできません。渡辺勘治には胃がんになるまでしたいことがなかったため、選択することもできなかったのです。
まずは「やり残したこと」に気づくところから
誰であれ、渡辺勘治になる可能性があります。
しかし、あなたにも小田切トヨのような存在が必要であると思ったら、Happy Ending カードが役に立つかもしれません。
今なら、まだ間に合う
あなたの人生には、まだ“できる時間”と“動ける体”があるかもしれません。
それは、渡辺勘治がギリギリで得られた「最後のチャンス」より、はるかに恵まれた条件です。
今、したいことを始めますか、それとも先送りしますか?