本稿は「シリーズ 予期的後悔」の第4章です。
第1章、第2章、第3章を読んでいない人は先にそちらを先に読まれることをおすすめします。
第1章「なぜ、わかりきったリスクに備えないのか ― システム1とダチョウスタイルの心理学」
わかりきった将来のリスクがあるのに、なぜ私たちは備えを先送りしてしまうのか?
この問いに答えるために、これまでの章で私たちは心のメカニズムを一歩ずつ見てきました。
✅ 第1章では、将来のリスクを理解していても備えを避けてしまうのは、システム1(直感型思考)が“嫌な・怖い話題”を避けようとする防衛反応を起こすためであることを学びました。
✅ 第2章では、システム1(直感型思考)の回避傾向を抑制すべきシステム2(論理的思考)が、「とりあえず今は平穏でいたい」という短期的な安心に流されるシステム1(直感型思考)の意向に逆らうことができず、システム1(直感型思考)の言いなりに引きずられる構造を確認しました。
✅ 第3章では、過去を振り返るときの心の動きを取り上げました。人は出来事を思い出した際、それが自分の期待ーつまり基準点からずれていると、まず後悔という感情が生まれます。そしてその感情をきっかけに、「もし、あのとき別の選択をしていれば」と考える反実思考(仮想)が起動するのです。
この反実思考は、単なる後悔の再演ではなく、後悔という感情を出発点として、次に同じ失敗を繰り返さないための学習装置として働きます。つまり、人間は感情を通じて自分の判断を再検証し、将来の行動を修正する力を持っているのです。
しかし、その力を使うか使わないかは人それぞれです。
では、ここで残された課題は何でしょうか。
第3章の終わりで述べたように、課題は2つあります。
1️⃣ システム1(直感型思考)の共感と同意の獲得。
実際の意思決定権はシステム1(直感型思考)にあります。いくらシステム2(論理的思考)が備えの必要性を理解して、将来の基準値を設定してそこまでの道のりを描いたとしても、システム1(直感型思考)が感情的に納得しなければ行動は起こせません。
2️⃣ 将来のあるべき姿(基準点)の設定。
経験していない将来に対しては、過去型の反実思考は無力です。システム2(論理的思考)において自分の「望ましい将来像」を設計する必要があります。
つまり、「わかっているのに動けない」問題の核心は、システム2(論理的思考)が将来を構築しながらも、それを実行するシステム1(直感型思考)の“感情的賛同”を得られないことにあります。
この2つの残された課題のひとつ、「システム1(直感型思考)の共感と同意の獲得」の橋渡し役を担うのが、この第4章のテーマである予期的後悔(anticipatory regret)です。
第4章では予期的後悔のイメージを見ていただき、第5章でその理論的説明をします。
残されたもうひとつの課題である「将来のあるべき姿(基準点)の設定」については第6章で取り上げます。
私たちは普段、過去の出来事を思い出して後悔します。しかし、“まだ訪れていない未来”を想像して後悔を先に感じることもできるのです。まるで、夢の中で未来を見てしまったかのように……そんな体験をした一人の男性がいました。
彼の名は、A夫さん。これは、彼が「未来の自分」と出会った夜の物語です。
1.ケース予期的後悔 ― 「未来の痛み」をすでに起こったかのごとく今体験する
夢の中で未来を観た
A夫さんは、定年を3年後に控えた会社員。
仕事に追われるうちに、老後のことを考える時間が減っていました。
食卓の上には、封も切られていない「老後の備え」と書かれた封筒。それを横目に、いつものようにテレビをつけたまま、ソファでうたた寝をしてしまいました。
まぶたが重くなり、意識がゆっくりと遠のいていく。
次の瞬間、彼は夢の中で“30年後の自分”と出会います。
散らかったリビング。伏せられた家族写真。
請求書の束、冷めたお茶、そして孤独な静けさ。
老いた自分はつぶやきました。
「もし、あのとき備えていたら……」
その声は、遠い過去からの響きのようでもあり、同時に“これから起きる未来”の警告のようでもありました。
【シーン1.未来からの逃避】
夜
仕事を終えたA夫さんは、夕食後のリビングでソファに腰を下ろし、テレビを見ながらうたた寝をしていました。
テーブルの上には「老後への備え」と書かれた老後の生活資金に関する資料が入った封筒が置かれています。手を伸ばせばすぐ届く距離にあるのに、彼は今日も開けることができません。
「今はまだ、考えたくない……」
その思いが、静かに彼の心の奥に沈んでいきます。未来に向き合う勇気を持てず、明日も今日と同じ日が続くと信じたい。
それが、彼の心を守るシステム1(直感型思考)の防衛反応でした。
【シーン2.未来からのアラーム(夢の中)】

A夫さんは、うたた寝の中で不思議な夢を見ていました。そこは、見覚えのあるリビング。けれども、光は冷たく、時計の音も聞こえないほど静まり返っていました。
老いた自分が、ソファに座っています。
手の中には、若い頃の家族写真――
笑っている妻、まだ幼かった子ども。
今はもう、離れ離れになってしまった家族の姿です。
部屋の片隅には、開封されていない請求書。
テーブルの上には、冷めたコーヒーカップ。
その中で、老いた自分は写真を見つめ、何かを後悔するように、ただ深く息をついていました。
【シーン3:あるべき未来(夢の中)】

ふと場面が変わります。
窓辺から柔らかな日差しが差し込み、
食卓には妻と孫たちの笑顔が並んでいます。
穏やかに笑う自分の姿――それは、「かくありたい」と心の奥で思い描いてきた理想の未来でした。
この瞬間、彼のシステム2(論理的思考)は、“将来の自分のあるべき姿”すなわち基準点をはっきりと描き出していました。
それはお金の額の問題ではなく、「老後を家族に囲まれて穏やかに暮らしている自分」というあるべき自分の基準点でした。
【シーン4:壊れた未来像】

しかし、まだ次の瞬間、光景は再び冷たい青に変わります。あの静まり返った部屋に戻っていました。老いた自分が、手にした家族写真を見つめています。リビングは散らかり、埃をかぶったテーブルには請求書が積み重ねられていました。
夢の中のA夫さんは理解します。
これが、「理想の未来」との乖離(かいり)なのだと……
彼のシステム2(論理的思考)は、未来の基準点と現実の自分の差を見える化し、今の選択の結果がもたらす将来と自分が描いたあるべき姿との乖離を理解し始めます。
【シーン5:未来の自分との対話】

夢の中で、A夫さんは再びあの部屋にいました。
ただ、今度は少し違います。
そこには、老いた自分―未来のA夫さんが座っていました。薄明かりのなかで、老いた自分はゆっくりと顔を上げ、まっすぐに今のA夫を見つめています。
その目には、深い悲しみと後悔の色がありました。
「なぜ、あのとき備えておかなかったのか……」
「なぜ、あのとき選択を変えなかったのか……」
A夫さんは息を呑みました。
その時将来の自分がした後悔を予め強く感じたのです。
老いた自分はA夫さんに震える手を差し出しました。
「まだ、間に合う。どうか、私のために今のうちに変わってくれ」
その声は、他人のものではなく、自分自身の中から響いていました。
このときA夫さんの心では、システム2(論理的思考)が描いた未来のシナリオに、システム1(直感的思考)が感情として反応し、ふたつの思考がひとつの像を結んでいました。
それは、システム2(論理的思考)が行った将来を仮想的に過去化した状況を観たシステム1(直感的思考)がその痛みを先に感じ取る心のシミュレーションだったのです。
それが予期的後悔です。
【シーン6:予期的後悔ー未来の痛みを予め感じる瞬間】

老いた自分の声が、A夫さんの胸の奥に深く響いていました。その言葉を聞いた瞬間、彼の中で何かが崩れ落ちていきました。未来の自分が味わった後悔の痛みが、時間を越えて、今この瞬間に流れ込んできたのでした。
それは、映画を観るような他人の悲しみではなく、自分事だったのです。
A夫さんの目には涙が浮かびました。胸の奥が熱くなり、言葉にならない想いがこみ上げてきます。
「どうして、こんなに年老いた将来の自分に冷たかったのだろう……。今しておけば良かったのに……」
その痛みこそが、予期的後悔(anticipatory regret)でした。未来に起こるかもしれない後悔を、先に体験しているのです。それは痛みでありながら、同時に行動のエネルギーでもありました。
システム1(直感的思考)には、将来の反実仮想をする力はありません。
しかし、システム2(論理的思考)が創りだした反実仮想を共有すれば、心拍が速くなり、手が震えるほどの感情を生み出すのです。
その時、彼の脳では過去の後悔を思い出すときと同じ領域―前帯状皮質と島皮質が活動していました。未来を「まだ起きていない過去」として感じ取る人間だけが持つ心の機能が作動していたのです。
A夫さんは老いた自分の涙を見つめながら、静かにうなずきました。
「もう、同じ思いはしたくない……」
その小さなつぶやきが、未来を変える第一歩になろうとしていました。
【シーン7:行動の変容】

朝の光がカーテン越しに差し込み、部屋全体が少しずつ現実の色を取り戻していきました。
A夫さんはハッと目を覚ましました。
心臓の鼓動がまだ早く、手のひらには汗がにじんでいました。
夢の内容はすべて覚えていません。けれど、胸の奥に残る“痛みの記憶”だけは、はっきりと感じていました。
静かに立ち上がり、テーブルの上にあった封筒
「老後への備え」を手に取りました。
中には、まだ開けられていなかった老後資金シミュレーションの資料。彼は封を切り、ペンと電卓を手に取りました。夜明けの光がノートの上に落ち、その光が、まるで“未来の自分からのメッセージ”のように見えました。
もう、先送りにはしません。
あの夢の中の痛みを、現実の行動に変えるときが来たのです。このとき、彼の中ではシステム1(直感的思考)がシステム2(論理的思考)を再び動かしていました。予期的後悔が、単なる感情ではなく、選択を修正する知性的なナビゲーションとして機能し始めていたのです。
未来を先に生きるということ
夢の中で未来を見たA夫さんは、未来を先に体験し、その痛みを糧に現在を修正したのです。予期的後悔とは、未来を恐れる装置ではなく、まだ間に合ううちに軌道を修正するための心のシミュレーターです。

私たちも誰もが、自分の中に「未来の自分」というカウンセラーを持っています。その声に耳を傾けるとき、後悔は「警告」から「導き」に変わるのです。
予期的後悔リテラシーのプロセス
A夫さんの予期的後悔の流れをおさらいしてみましょう。
🔹 トリガー
🔹 反実思考
🔹 予期的後悔
🔹 システム1とシステム2の働き
などの流れと関係を確認してみてください。

第5章では、システム1とシステム2がどのように協働して予期的後悔を生じさせるのか、そのプロセスをより詳細に観ていきましょう。









