法定相続人と非嫡出子の争い
トルストイの名作「戦争と平和」はキリール・ウラヂーミロヴィッチ・ベズーホフ伯爵の相続の事件から始まります。ベズーホフ伯爵は、数百万ルーブルにおよぶ財産と4万人の農奴を有するロシアきっての大富豪でした。財産を表現するのに農奴の数というのは、いかにもロシアらしいですね。
臨終の近いベズーホフ伯爵には妻も嫡出子もなく、直系の相続人は3人の姪とワシーリイ公爵の妻を加えて4名でした。主人公のピエールはベズーホフ伯爵の庶子(非嫡出子)でした。ロシアの法律のことはわかりませんが、どうやら遺言がないと直系相続人と書かれている4名に遺産が配分されるはずだったようです。現代の日本における法定相続人ですね。
ここで登場するのが、親戚筋でベズーホフ伯爵に息子のボリースの名付親になってもらっていたアンナ・ミハイロヴナ・ドルベツコーイ公爵夫人です。相続人にはなり得ない公爵夫人でしたが、庶子のピエールに相続させることで、ピエールに恩義を売って見返りを得ようと目論んでいました。そして、ピエールに遺産を遺すようにベズーホフ伯爵に画策していたようなのです。
その遺言の存在に気付いたワシーリイ公爵はその遺言の破棄を狙っていました。弁護士に確認したところ、その遺言とピエールへの伯爵家の譲渡に関する皇帝への上奏文(非嫡出子の認知)があれば、全財産がピエールに行ってしまうことがわかったからです。
ベズーホフ伯爵の死の当日
そして、ここからがベズーホフ伯爵の臨終の邸内における物語です。
ワシーリイ公爵は相続権のある3人の姪の長女であるカラリーナ・セミョーノヴィチに遺言のありかを尋ねます。カラリーナは法律に関する無知から、遺言があったとしても庶子には財産が遺せないと誤解していたため、遺言のことは知っていたものの、無視していたのです。
ワシーリイ公爵の説明に感情的になって激高するカラリーナに、弁護士にまで相談した結果であることを丁寧に説明します。なんと言っても巨額の遺産の行方がかかっていますから。そしてカラリーナから、その遺言がベズーホフ伯爵のベッドの枕の下にあるモザイク模様の書類ばさみの中にあることを聞き出します。
そんな時、ピエールはアンナ・ミハイロヴナ・ドルベツコーイ公爵夫人に付き添われてベズーホフ伯爵の邸宅に到着します。
臨終の床にあるベズーホフ伯爵のベッドの周りに関係者が集まる中、ワシーリイ公爵とカラリーナは他の人に気付かれないように、枕の下から遺言の入ったモザイクの書類ばさみをそっと引き出して部屋を出ます。ベズーホフ伯爵が眠ってしまったため皆その部屋から出ていきますが、ワシーリイ公爵はさらに隣の部屋にお茶を出させて関係者をベズーホフ伯爵から遠ざけようとします。隙を見てカラリーナと供にベズーホフ伯爵の部屋に戻って、伯爵に遺言を取り消させる、もしくは廃棄するつもりだったのです。
しかし、ドルベツコーイ公爵夫人はそんな二人に騙されませんでした。二人を追って伯爵の隣の部屋に戻り、カラリーナの持つモザイクの書類ばさみを取り上げて、ベズーホフ伯爵をこのまま静かに逝かせるべきだと主張します。遺言の取消の話しはさせないということです。ここからカラリーナとドルベツコーイ公爵夫人の間で数回遺言の奪い合い、ひったくり合いが行われます。こうなると争族も実力行使です。
そこへ突然、相続人の末の姪が病室から出てきてベズーホフ伯爵の死を告げます。カラリーナは持っていた遺言の入った書類ばさみをとり落とします。万事休す……
伯爵の死により、もはやこの遺言を取り消すことはできなくなり、ピエールに全財産が遺されることが決定したのです。
被相続人の意図
なぜ、ベズーホフ伯爵は庶子のピエールに全財産を相続させたのでしょう?
相続人の立場から見ると、誰がいくら相続するかが気になりますが、被相続人にとっては何のために財産を遺すかが第一で、その目的を実現するために誰に任せるかが第二であるはずです。
そこで、被相続人であるベズーホフ伯爵の相続に対する意図がポイントとなります。自分の死後の財産の活用方法と管理を任せる相手まで物語の最後の章として書いておくことができるし、書かないこともできるのです。
トルストイはベズーホフ伯爵の意図を書いていませんから、ベズーホフ伯爵がどのような意図で自分の相続をとらえていたかは不明ですが、いくつかのパターンを考えることができます。
1️⃣ 何の意図も持ち合わせていなかった。
(1)実は認知症になっていたので、相続について考える力をすでに失っていた。
(2)あるいは、死後のことに関心がなかった。
2️⃣ 愛憎
ワシーリイ公爵の影響下にあるカラリーナ3姉妹に相続させたくなかった。
3️⃣ 推薦と強要
ドルベツコーイ公爵夫人から遺言の作成をすすめられ、言われる通りにピエールを相続人とする遺言を作成した。
4️⃣ 広大な領地、多数の領民と財産の管理
広大な領地、多数の領民と財産の管理を任せることができるのはピエールであると最初から決めて遺言を作成していた。
トルストイは書いてないので、わかりませんが、ベズーホフ伯爵からすれば、4️⃣番目の自分でちゃんと考えて決めたとしておくのが、最も彼にとって好ましいと思いませんか?
そのように解釈すると、ベズーホフ伯爵は自分の人生の物語を死後のことまで含めて書いたことになります。
ベズーホフ伯爵が、もしそのような意図で遺言を書いたのであれば、その意図はその後の物語でピエールがベズーホフ伯爵となって実現していくのです。
物語は因果でつなぎます。脈絡のないイベントはつなぐことができません。物語の因果は登場人物の意図です。たまたまではつまらないのです。
遺言の力
ベズーホフ伯爵が、死後も領地と財産の管理をしっかり行いたいと考え、それをピエールに任せたいと考えていたとしても、考えているだけではそれは実現することができませんでした。なぜならば、ピエールは嫡出子ではなかったからです。
しかし、ドルベツコーイ公爵夫人のすすめによって遺言と非嫡出子のピエールを認知する皇帝宛の請願書を書いた結果、その意思を明確にすることができたのです。
自筆遺言証書のリスク
しかし、遺言を書きさえすれば大丈夫だとも言い切れませんでした。
ドルベツコーイ公爵夫人はベズーホフ伯爵邸を辞去する前に、当日邸内で何が起こっていたのか理解していなかったピエールに言い残します。
「もし、わたくしがあの場にいませんでしたら、何が起こっていたかしれませんでしたのよ・・・」
公爵夫人は相続人となったピエールに恩を忘れさせないように言い残したつもりだったかもしれませんが、遺言者のベズーホフ伯爵に言うべきだったかもしれません。と言うのは、ドルベツコーイ公爵夫人という援助者がいなければベズーホフ伯爵の遺言は反故にされていたかもしれないからです。伯爵の意思能力が減少した際に、ドルベツコーイ公爵夫人は彼女自身の動機からたまたまその遺言の守り手として機能したのです。遺言の形式、保全の重要性を垣間見せてくれたシーンです。
相続人の立場
庶子でピエールは遺言を書いてもらわない限り相続人にはなりえませんでした。一方、日本でいうところの法定相続人であったワシーリイ公爵の妻と3人の姪は、遺言を書かれると相続分を失う可能性がありました。
ドルベツコーイ公爵夫人という相続の部外者の動きによって相続が左右されるのも珍しいことではありません。まずは相続のリスクについて確認しておくことの重要性をトルストイは教えてくれます。
物語の力
物語は、主人公のピエールが巨万の財産を相続することで回り始めます。また、妻の相続に失敗したワシーリイ公爵はこの後 娘のエレナをピエールに嫁がせることで相続における失敗の挽回を図ります。相続は有能な相続人の人生を加速する効果があると言って良いでしょう。
トルストイがベズーホフ伯爵の相続を物語のはじまりに据えたのはなぜなのでしょうか。人生の物語の終わりは新たな人生の物語の始まりでもあります。
ベズーホフ伯爵は自分で物語を書いており、遺産を相続したピエールはその後放蕩生活から抜け出し、自分の人生の物語をデザインしていきます。
ベズーホフ伯爵の遺言は彼の物語の最後の一章だったと言えるでしょう。
物語の展開は作者次第です。
あなたはあなたの人生の物語の作者ですが、今後どのような展開になるか、すでに書いていますか?
LIFEデザインワーク
自分で自分の人生の物語を創りましょう!










